2023年6月~8月 安藤優一郎氏の江戸の歳時記が更新されました

江戸のヘアスタイル⑥ 【女髪結の登場】

当時は、男性と比較すると、女性は自分で髪を結うものとされていたといいます。男性の場合、総髪ならばともかく、月代を剃るとなると、鏡を見ながらであっても、なかなか難しかったことでしょう。そのため、現代の理髪師にあたる「髪結」という職業が生まれることになりました。

女性の場合は髪を切った上で、髪を束ねたり結ったりしたわけですが、髪型が自分の手では負えないレベルになると、女性専門の髪結に頼むしかなくなります。こうして、「女髪結」という職業も生まれます。

女髪結は既婚で子持ちの女性が多かったようです。髪結床のような床場は持たず、道具箱を持って顧客のもとを訪れ、注文通りの髪型に整えました。料金は1回あたり200文で割高でしたが、需要は大きかったようです。それだけ、女性の髪型が精巧なものになっていたからです。

嘉永6年(1853)の町奉行所の調査によれば、江戸市中に1400人を越える女髪結がいました。女性の職業として定着したことが分かります。

 

江戸の銭湯① 【銭湯の数が多かった理由】

江戸では、町人が自分の家に風呂を持つことは稀でした。町人が自宅に風呂を造らなかった理由としては、火事に対する恐れ、燃料の薪の価格の高さ、そして水が不自由なことが挙げられます。

要するに、風呂を炊く手間や費用を考えれば、銭湯に出かけた方が安上がりで好都合でした。そのため、自宅に風呂を造らなかったというわけです。

江戸の町に限ることではありませんが、この時代は銭湯の数がたいへん多かったのが特徴でした。江戸の銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591)の夏に、伊勢与一という者が銭瓶橋のほとりで、永楽銭1文の料金で入浴させたことにはじまると伝えられます。

その後、江戸が巨大都市化するに伴い、銭湯の数は増加していきます。ついには、町ごとに銭湯があるぐらいの数となりました。文化11年(1814)には、その数は600軒余にも達します。幕末の頃になると、江戸の中心部では1町あたり銭湯が2軒ずつあるのが珍しくなくなります。

 

江戸の銭湯② 【銭湯の数が多かった理由】

江戸で銭湯の数が多かったのは、利用者の立場から言うと、手間や費用を考えれば銭湯に入った方が安上がりだったからですが、実際のところ料金は格安と言ってよい価格でした。江戸中期にあたる明和年間(1764~72)までは、大人が6文。子供が4文。寛政六年(1794)からは大人が10文。子供が6文となりますが、他の物価に比べると格安だったことに変わりはありませんでした。

かけ蕎麦1杯が16文ですから、その半額ほどに過ぎません。その格安さは際立っていました。

言い換えると、格安な料金であったからこそ、懐の寂しい江戸っ子でも毎日のように銭湯に通えました。それだけの頻度で利用されたからこそ、格安料金が可能だったとも言えるでしょう。

毎日のように通った理由としては、気候事情も見逃せません。江戸は風が強いため埃をかぶりやすく、毎日風呂に入ることを習慣とせざるを得なかったというわけです。

 

※安藤優一郎氏の「江戸の歳時記」Ⅰ~Ⅲ (2015~2018年)を冊子として刊行しております。

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