江戸のヘアスタイル②【様々な髷の登場】
江戸中期に入ると、剃り残した髪で結われた髷の形が様々に工夫されるようになります。八代将軍徳川吉宗の時代にあたる享保期(1716~36)には、人形遣いの辰松八郎兵衛という人がはじめた結び方とされる「辰松風」が登場します。髷の根の部分を高く付き上げ、先端が月代に突き刺さるようにした髪型でした。
次の元文期(1736~41)には、辰松風の髷の折りの部分を緩やかにした「文金風」が流行ります。名称の由来は、金貨にありました。
元文元年(1736)に幕府が発行した元文小判・一分金は文金と呼ばれましたが、同じ年にこの髪型がはじまったことで、文金風と呼ばれたのです。
そして明和・安永期(1764~81)には、髷を高くした上で七分を前に三分を後ろに分けた「本多髷」が流行する。譜代大名の本多家の家中から広まった髪型でした。
本多髷の流行が収まると、今度は時代劇でよくみるような「銀杏髷」が流行しました。髷の先を銀杏の葉のように広げたことが名称の由来です。
江戸のヘアスタイル③【女性の間で流行した島田髷】
江戸時代に入る前、成人女性の髪型は垂髪(すいはつ)でした。名称の通り、髪を垂らすのが普通でした。
しかし、江戸時代に入ると、男性の髪型の影響も受けて結髪へ移行していきます。特に庶民の女性は動きやすさを考慮して、髪を束ねて結ぶようになりました。
江戸の町で最初に流行したのは「唐輪髷」(からわまげ)です。頭頂で髪の輪を複数作って、その根を余った髪で巻き止める髪型でした。
唐輪髷を簡略化したのが「兵庫髷」です。摂津国兵庫の遊女が結い始めたことに因んで、兵庫髷と呼ばれました。
次に流行ったのは「島田髷」でした。前髪、左右側面の髪である鬢(びん)、後方の髪である髱(たぼ)を張り出した上で、髷を折り返して中程で締めたものです。東海道島田宿の遊女がはじめたとされていますが、主に未婚女性の結髪として幕末まで続いた髪型でした。