安藤優一郎氏の江戸歳時記が更新されました

江戸の菓子③【亥の子餅が配られた玄猪の儀式】

次に玄猪の儀式をみていきましょう。毎年、亥の月にあたる十月の最初の亥の日は玄猪の日とされ、亥の子に見立てた餅(亥の子餅)を亥の月、亥の日、亥の刻(午後十時)に食すると、無病息災がもたらされると信じられていました。

猪は多産な動物でした。そのため、亥の子餅を食すると子孫繁栄がもたらされるという言い伝えもありました。

幕府は無病息災のほか子孫繁栄の御利益も得られるとして、当日、亥の子餅を下賜することも江戸城中の恒例行事として組み入れます。こうして、登城してきた諸大名に対し、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の五色の亥の子餅が下賜されました。

諸大名は下賜された亥の子餅を家臣に分け与え、お祝いをすることが幕府から義務付けられていました。諸大名の家臣が将軍の存在を改めて認識する機会にもなりましたが、これこそ幕府の狙いなのでした。

 

江戸の菓子④【将軍徳川吉宗による砂糖黍栽培の奨励】

江戸時代も後期に入ると、砂糖がふんだんに入った甘味のある菓子が懐の寂しい江戸っ子にも身近なものとなります。そんな菓子の大衆化を支えたのは、何と言っても砂糖の生産量が大幅に増加したことでした。

江戸前期は、わずかに奄美大島や琉球で砂糖黍が栽培されるのみで、ほとんどを輸入に頼らざるを得ませんでした。そうした事態を憂慮した幕府は8代将軍吉宗の時代に入ると、輸入に大きく依存する砂糖の国内自給を目指し、砂糖黍の栽培を奨励します。

幕府の奨励策に刺激され、砂糖黍の栽培そして製糖に取り組んだ農民に、武蔵国橘樹郡大師河原村(現神奈川県川崎市)で名主を勤めた池上幸豊という人物がいます。池上は幕府が試作していた砂糖黍の苗を譲り受け、栽培を試みます。研究を重ねて独自の製糖法を編み出し、明和3年(1768)には黒砂糖や白砂糖の製糖に成功します。以後、全国を回って、その製糖法の普及に努めました。

砂糖黍の栽培そして砂糖の製糖量が伸びることで、もはや輸入に頼る必要もなくなっていくのでした。

 

江戸の菓子⑤【薩摩藩による黒砂糖の増産】

砂糖には白砂糖と黒砂糖の二種類があります。黒砂糖を精製したのが白砂糖ですが、江戸時代、その使い道は異なっていました。

黒砂糖は主に庶民が食べる駄菓子に使われました。調味料として料理にも使用されました。『守貞謾稿』という文献によると、蕎麦屋、天ぷら屋、鰻屋で大量に消費されたそうです。

江戸のファーストフードの発展を陰で支えたのですが、一方、白砂糖は茶席に出されるような高級菓子の製造に使われたため、上流階級で需要が大きかったそうです。

奄美諸島で作られた黒砂糖が現在の鹿児島県にあたる薩摩藩の財政を支えていたことは割合知られているかもしれません。砂糖の供給が需要に追い付かなかったことに目を付けた同藩は奄美の農民に対して砂糖黍の栽培を強制し、それを原料とする黒砂糖を増産させます。そして安く買い上げ、大坂で高く販売することで巨利を挙げます。

江戸後期、薩摩藩は財政難に苦しんでいましたが、黒砂糖の大増産を通じて莫大の利益を掌中に収めます。財政再建に向かって大きく前進するのでした。