食のサロン 「江戸前蕎麦の話」

その1 / 蕎麦のルーツ

日本のそばのルーツはDNA分析から中国の雲南省からヒマラヤあたりであろうと推測されている。高知県で9000年前の遺跡からそばの花粉が見つかり当時からそばの栽培が行われていた可能性が論議されている。奈良時代前期に天正天皇により雨が少なく稲の収穫が見込めない年にそばの栽培が推奨されたと言う記述がある。しかし、そばの歴史の中で麺としての蕎麦が誕生するのはずっと後の事である。麺としての蕎麦いわゆる蕎麦切りは16世紀の頃に誕生し江戸期に入り製法が打ち立てられたと考えられている。

それではその蕎麦切りはどこで最初に作られたのかと言う事になる。芭蕉門下の俳人許六が宝永3年(1706年)に編纂した「風俗文選」の中で蕎麦切りとは信濃の国本山宿より出て国々にもてはやされるようになったと言う説を紹介している。現在塩尻市本山は蕎麦切り発祥の地として蕎麦で町おこしを行っている。

甲州天目山栖雲寺には蕎麦切り発祥の地と言う大きな石碑が建っている。尾張藩の国学者天野信景が蕎麦切りは甲州天目山栖雲寺の参詣の人々に米麦が少ない地方の為ソバをこねて提供したのが始まりと書き残している事による。当然こちらも蕎麦切り発祥の地を名乗っている。

江戸を発祥と言う説も色々とあり定かな事は分からない。各地で自然発生的に作られて来た。うどんを手本に作られたのではないか等の仮説も多々ある。どちらにしても以後広く普及したと言う事は蕎麦切りがとても美味しい食べ物だった事に間違いない。

蕎麦が江戸で人気を呼び、扱う屋台や店が瞬く間に増えて行く。武家、町人を問わず江戸の人々に支持された事が窺い知れる。蕎麦切りには蕎麦つゆが無ければ始まらない。当時蕎麦つゆに必要な醤油や味醂も水運を使い野田や銚子、流山等から江戸に集まって来ていた。それらも江戸で蕎麦文化が花開いた条件として関係がある物と思われる。幕末の頃には江戸の蕎麦店は3700件を数えたと言われている。

各蕎麦店による創意工夫により考案された蕎麦もある。蒲鉾や椎茸等でおかめの面をかたどった「おかめ蕎麦」は下谷七軒町の「太田庵」の創案。「鴨南蛮」は馬喰町の笹屋治兵衛の創案とされる。創業150年となる浅草橋の江戸蕎麦手打ち処「あさだ」の鴨セイロ、 鴨南蛮は評判が良い。

明治期に大阪で考案されたとされる「カレー南蛮」もファンが多いメニューである。明治35年創業日本橋「やぶ久」。評判のカレー南蛮には辛さが普通と辛口の2種類ある。それぞれ冷たい蕎麦のつけセイロがあり肉も鶏と豚が選べる凝りようである。明治17年創業の名店神田「まつや」のカレー南蛮は作家池波正太郎もそれがまた、うまいと評している。

新橋「能登冶」は安政年間に能登屋として創業し明治になり明治の冶を取り能登冶として屋号を改名し現在6代目が営業。明治5年開店時の店の大家が浅野家出入りの大工であったので浅野屋を名乗ったと言う「神田浅野屋」。東京の蕎麦店には歴史と共にいわれも色々ある物である。

*こねて団子状/切ったものには蕎麦の字を使用。

その2 / 蕎麦屋の屋号

伝統的な物であろうか蕎麦屋の屋号に何々庵と言う屋号を良く見かける。客の方は店名にこの庵が付いている事によって何となく美味しい蕎麦を連想するようなので不思議でもある。なるほど「一茶庵」、「本村庵」、「大村庵」、「長寿庵」等名店が多いのも事実である。

江戸中期浅草の浄土宗の寺院内に「道光庵」と言う庵があった。この庵主が信州出身で蕎麦打ちが得意であったので参拝の人達に蕎麦を振舞っていた。これが大変おいしい蕎麦と評判になり信心にかこつけて蕎麦目当てに人が集まるようになる。やがて評判が評判を呼び人々が列をなしたと伝えられている。

その道光庵にあやかりたいと当時の蕎麦店が屋号に庵を付けるようになったと言われる。蕎麦打ち名人にあやかってうまい蕎麦を打てるようにと言う事もあったのかもしれない。道光庵のあまりの繁盛ぶりと騒ぎを見かねて本院の和尚が本来の修行の妨げになるとこの庵の蕎麦を禁じてしまった。天明六年(1786年)の事とされる。この道光庵を屋号とする蕎麦屋が西日暮里にある。先の道光庵との関連は知らないが創業30年地元で評判は良いようである。

屋号に庵の付く都内の老舗の代表格は上野の「蓮玉庵」があげられる。上野不忍池の蓮の葉の上にある玉のような蕾にちなみ蓮玉庵と店名に付けたと言われる。創業は安政六年。斉藤茂吉がこの店を短歌で読み、森鴎外の「雁」を始め坪内逍遥、樋口一葉らの作品にも登場する。店の看板と石額は久保田万太郎の筆と聞く。

同じく庵の付く蕎麦店では栃木県足利の「一茶庵」が昭和において手打ち蕎麦の普及に貢献した事が特記される。この店は当初東京の新宿に店を開きその後大森にて店を構えた。大森の一茶庵は美味しい蕎麦店として評判を得ていたが戦火に焼かれ時を経て栃木県足利にて一茶庵を再開する。

やがて美味い蕎麦を求めて東京から足を運ぶ人もあったばかりか、その蕎麦の技術を学ぼうと各地から足利詣でを行う人が多く現れた。主人片倉康雄は当時何処の店も秘伝として企業秘密であった手打ち蕎麦の技術を乞う物に惜しみなく教えた。以来そこで技術を学んだ親族や弟子は1000人を数え700軒以上の蕎麦店に技術が伝承されたと言われている。「九段一茶庵」や「鎌倉一茶庵」を始め弟子や孫弟子による全国の名店は多い。

豊島区南長崎で「翁」を開店した高橋邦弘も片倉康雄の「日本そば大学講座」を受講した後一茶庵宇都宮で修業した弟子のひとりである。翁は評判を得て繁盛したがその後自家製粉を行う為山梨県長坂に移る。現在はその弟子が「翁長坂店」を継いでいる。高橋邦弘は広島を拠点に蕎麦指導を中心として全国で活動を続けている。

その3 / 江戸っ子の粋

江戸っ子は蕎麦っ食いとして有名である。箸で手繰った蕎麦の香を楽しむ為どっぷりつゆに浸すような食べ方をしてはならない。蕎麦猪口に入った辛めのつゆを手繰って持ち上げた蕎麦の先にほんの少し付けてするすると音を立ててすすり込む。素早く食べなければ蕎麦が伸びてしまう。ぐちゃぐちゃ噛むような食べ方はもってのほか噛まずに呑み込むように喉越しを楽しむ。江戸っ子の粋な食べ方とされている。

噺家で人間国宝だった五代目「柳家小さん」が高座で「時そば」を演じた。演じ終わって寄席の近くの蕎麦屋に入ると自分の高座を聞いていた客が大勢蕎麦を食べていた。客は小さんが店に入って来たことを見ている。小さんとしては仕方なく見栄を張り他の客の目を意識して江戸っ子よろしく蕎麦をすすった。見ていた客はさすが小さんと感心したようである。後に小さんが言うにはこの時の蕎麦は全く美味しくも何も感じられなかったとの話であった。

ある粋な江戸っ子が死ぬ時になって一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆに浸して食べたかったと言う笑い話もある。江戸っ子ならずとも蕎麦好きなら粋な蕎麦の食べ方をしたい。そんな事を思っていると死ぬ時に後悔する事になりそうである。

もっとも蕎麦の香りを楽しむと言うのは蕎麦の食べ方として間違っていない。新蕎麦であればなおさらである。蕎麦屋によっては最初の一(ひと) すすりか二(ふた)すすりは蕎麦の香りを味わってもらうよう冷たい水に蕎麦を浸して食べてもらうような演出をする店もある。本来東京の蕎麦は醤油の多い辛いつゆで食べられる。そう言うつゆに蕎麦をたっぷり浸してしまっては蕎麦の味が分からなく成るのも事実であろう。

昔の蕎麦通の人は「蕎麦がき」で日本酒を飲んで「もり蕎麦」で締めくくるような事を良くしたものである。「蕎麦がき」にて使用している「そば粉」の良し悪しが分かり蕎麦切りでその店の技量が分かると言う事であろうか。

落語の「時そば」は客の男が屋台の蕎麦屋とやり取りをしながら調子良く蕎麦を食べる。勘定を払う段になり小銭で払うと言いだし途中で時刻を聞き勘定をごまかしてしまう。それを見ていた他の男が自分もまねて上手くやろうとして逆に多く払ってしまうと言う笑い話である。

この落語には当時の風俗や蕎麦屋の事情が良く盛り込まれている。二八蕎麦として蕎麦一杯の値段が一六文。夜鷹蕎麦として営業を始めるおおよその時間と風鈴を付けて屋台を担いた事。良い蕎麦とされる蕎麦は細く長い物であり添えられる具材もこだわりがある。使われる器の良し悪しや割り箸に至るまで話の中に当時の事情が読みとれる。

江戸の蕎麦が屋台により普及したのであろう事が想像され蕎麦を食べる事が江戸庶民の楽しみであった事も窺い知れる。江戸っ子の蕎麦好きはこの当時からDNAに受け継がれているように思える。

その4 / ザル蕎麦とモリ蕎麦

ゆでた蕎麦を冷水で冷やしザルに盛って提供する。いわゆる「ザル蕎麦」は蕎麦店によってセイロ(蒸籠)蕎麦ともいわれる。頃合いに茹で上がった蕎麦を冷水でさっとしめてセイロに盛る。出来立ての蕎麦を手繰ってだしの効いたつゆに付けてするっとすする。蕎麦の醍醐味である。

蕎麦についた余分な水分を切る為にセイロに盛られるのであるが蕎麦の歴史と関係があるらしい。江戸で蕎麦切りが作られるようになった当初は、蕎麦はゆで上げるのではなくセイロに盛って蒸されて提供されていたと言うのである。その習慣から蕎麦はセイロに盛られて提供されると言われている。

別の話では江戸のとある蕎麦屋がゆでて冷やした蕎麦を素早く水切りが出来て見栄えも良いのでセイロに盛って提供しだしたと言う説もありこちらは今と同じ考え方である。

ゆでた蕎麦を水で冷やしザルやセイロに乗せるのが当たり前と思っていたのは東京人であったと知らされた事がある。昭和の中頃までは良くあった話として上野界隈の蕎麦店で聞いた話である。東北方面から上京した人が上野駅で降り蕎麦店に入る。蕎麦と共に出された蕎麦つゆの入った徳利を持って蕎麦の盛られたザルの上からザットかけてしまうような事がしばしばあったらしい。

この話は複数の蕎麦店で聞いた事があり、実際にその現場を見たと言う人もいる。テーブルに着いた清楚なお嬢さんがモリ蕎麦の上からつゆをかけてしまった。店の人が「またやった」と言って布巾を持ってつゆのこぼれたテーブルを拭き、新しいつゆを持ってきてあげて食べ方を教えてあげていたと言う。

確かに全国に目をやると蕎麦を盛る容器には色々とあるようである。山形県では長方形の木のお盆の様な物に蕎麦を盛る板蕎麦。新潟県では同じような長方形のヘギと呼ばれる容器に一口サイズにまとめた蕎麦を並べて盛るヘギ蕎麦。島根県出雲地方では蕎麦を入れて重ねる事が出来る割子と言う塗の容器に盛る割子蕎麦。兵庫県の出石では蕎麦を入れた小皿を並べて食べる。どれも名物の美味しい蕎麦である。

一昔前までは東京の蕎麦店ではメニューにモリ蕎麦とザル蕎麦があるのがふつうであった。ところで「モリ蕎麦」と「ザル蕎麦」の違いは何であろう。殆どの蕎麦店では「モリ蕎麦」に海苔を散らして載せると「ザル蕎麦」となり値段もその分高くなると言うのが一般的である。

こだわりのある蕎麦店ではつゆの違いで区別をしている店もある。砂糖が高価であった当時には砂糖を使ってコクを出しダシも吟味したつゆを用いるのが「ザル蕎麦」とし「モリ蕎麦」と区別をしたと言う話である。蕎麦店のなかには風味のある黒みがかった蕎麦(麺)をモリ、粒子の細かい更科粉で打った蕎麦(麺)をザルと分けて出す店もある。いずれにしてもモリよりもザルの方が少しばかり高級と言う考え方は共通のようである。

その5 / 藪蕎麦

東京には「藪蕎麦」を名乗る店が多い。寛政の頃(1789〜1801年)雑司ヶ谷鬼子母神の近くの藪の中にあった百姓家が参拝客相手に蕎麦を出して評判になった。それにあやかろうと藪を名乗る蕎麦店が表れたと言うような説もある。

諸説はあるが広く伝えられているのは駒込の団子坂下にあった「蔦屋」と言う店が藪蕎麦の元祖であると言う話である。往時のこの店は3000坪の敷地を要し庭には滝を配し離れもあったとの事なので蕎麦店と言うよりは料亭のようなしつらえである。たいそう有名な店であったらしいが周りに竹藪が多かったことから人々は通称で藪蕎麦と呼んでいたようである。この蔦屋は明治の終わりに廃業され今は無い。

蔦屋の淡路町にあった支店を引き継ぎ堀田七兵衛が明治13年に創業したのが今に残る「神田藪蕎麦」である。団子坂の藪蕎麦(蔦屋)にならい料亭風の構えで厳選された玄(げん)蕎麦を用いた蕎麦を提供している。現在名実共に藪の本家とされている。江戸前の穴子を使った「穴子なんばん」はこの店のオリジナルとして知られている。

七兵衛の3男、勝三が浅草に店を出したのが「並木藪蕎麦」である。二代目堀田兵七郎は昭和の蕎麦打ち名人と言われた。この店の蕎麦つゆは東京一濃いつゆと言われている。場所柄浅草見物に来た客が寄る事も多い。ある時饂飩を頼んだ客がいて店員が饂飩は無いと言うと客がなんだ饂飩は無いのかと言うやり取りがあった。それを聞いていた主人の兵七郎がうちは蕎麦屋だと怒っていたのを思い出す。

並木藪の二男が上野池之端に店を出したのが「池之端藪蕎麦」である。この3軒が藪蕎麦の御三家と呼ばれている。

藪を屋号にした蕎麦店は都内及び全国にもたくさんある。日本橋の「藪伊豆総本店」は京橋にて江戸期より蕎麦店を営んでいた伊豆本と言う店を明治15年に堀田定次郎が藪と伊豆本の伊豆を取り藪伊豆として神田藪直系の分店となったのが始まりとされる。

この伊豆本は大塩平八郎の乱が起こったころには既に蕎麦店として繁盛していたとの事である。このころは全国的に米の凶作が続き江戸でも蕎麦が多く食べられたとあり、蕎麦が普及したのはあるいはそのような事情があったのかもしれない。藪伊豆総本店では落語とそばの会を定期的に催している。

上野にある「上野藪蕎麦総本店」は神田藪蕎麦からの暖簾分けで多くの蕎麦好きに支持されている。
東京で藪を名乗る有名店では中央区浜町の「浜町藪そば」港区麻布台の「麻布台藪そば」港区高輪の「泉岳寺藪そば」墨田区吾妻橋の「吾妻橋やぶそば」中央区の「日本橋やぶ久」等がある。

文京区本郷「森川町藪蔦」は共に団子坂蔦屋で奉公をしていた二人が夫婦となり暖簾分けにて店を構えたのが始まりと伝えられている。

その6 / 蕎麦屋の系統

蕎麦屋の系統にはその歴史や蕎麦自体の特徴から「藪系、更科系、砂場系」等と言われる普系があるとされる。藪、更科、砂場を称して江戸蕎麦の3大普系と言われている。

「砂場」は元々関西、大阪を発祥とした蕎麦の系統であるらしい。大阪城を築城した時の砂置場周辺に商店街が出来その商店街が通称砂場と呼ばれた。その中にあった蕎麦屋も砂場の蕎麦、砂場蕎麦と呼ばれるようになったとされている。大阪新町には砂場跡の石碑があり本邦麺類店発祥の地大阪築城史跡・新町砂場とある。碑文には太閤秀吉大阪築城により浪花の町に資材蓄積場設けられ新町には砂の類置かれ通称砂場と呼ばれた。

工事関係の人が集まり賑わい食要す中、「いずみや」、「津の国屋」等麺屋として開業されたとある。寛政十年(1799年)刊とされる摂津名所図会の中で「砂場いずみや」の図として紹介されている蕎麦店の絵図がある。大きな店構えに「す奈場」と染められた暖簾の掛かる外観図のほか賑わう店内の様子や蕎麦を挽く石臼等を画いた図が残る。

石臼の数、蕎麦を打つ、ゆでる、運ぶ人数、それを食べる客の数は百人をゆうに超え大した繁盛ぶりと店の規模の大きさに驚かされる。当時の名物蕎麦店であった事は窺い知れる。この砂場(浪速の新町)で繁盛した蕎麦店も残念な事に明治期に廃業となった様である。

大阪発祥の砂場蕎麦がどのように江戸に伝わったのかは分からないが時同じくして江戸にも砂場蕎麦の記録が現れる。寛永4年(1751年)の「蕎麦全書」には江戸薬研掘りに「大和屋大阪砂場そば」天明年間(1781〜89年)刊行の「江戸見物道知辺」には「浅草黒船町砂場蕎麦」の名前が登場している。神田藪そばの初代は「蔦屋」の神田店(連雀町店)を引き継ぐ前は浅草蔵前で「中砂」と言う店を出していて砂場系だったとの話を耳にした事があるが定かな処は分からない。

いずれにしても東京には砂場を名乗る歴史のある蕎麦店は多い。幕末に「大阪屋砂場」より暖簾分けにて高輪にて創業し明治2年に日本橋室町へ移転して現在に至る「室町砂場」は創業130年の老舗である。砂場系蕎麦店を代表する名店であり天もりの元祖とも言われている。

初代大阪屋長吉が天保10年(1838年)に創業した歴史を持つ「巴町砂場」は一番粉の細打ち蕎麦と薄味つゆが特徴の蕎麦店でとろろ蕎麦はこの店の名物となっている。「虎ノ門大阪屋砂場」は武家の娘であったが糀町七丁目砂場の幼女として預けられた初代のおかみが明治5年現在の地に創業。現店舗は大正12年普請の高級蕎麦店として知られている。

江戸における砂場本家とされる「糀(麹)町砂場」は都電三ノ輪橋駅近くの商店街に所を移し「南千住砂場」として店を構えている。この「南千住砂場」が現在「砂場本家」を名乗っている。これらの店が中心となり昭和8年に砂場長栄会が結成されその後「砂場会」と改名された。

砂場の普系とされる蕎麦店によるこの会には以前は180からの会員店舗数があったと聞いている。江戸蕎麦文化の創世記に大阪発祥の砂場蕎麦がかかわっていたのは事実のようである。大阪や関西は饂飩文化と思いこんでいる我々には面白い話である。ちなみに大阪、京都、関西にも美味しい蕎麦店は多い事を付け加えたい。

その7 / 二八蕎麦

二八蕎麦とよく言われる。蕎麦の何を指す言葉なのか、これには2つの説があるようだ。当時蕎麦一杯の相場価格が16文で江戸っ子がしゃれて2×8で16から二八蕎麦と呼んだと言う価格説。蕎麦粉8に対して小麦粉2の配合で蕎麦を作ったのでと言う配合比率を指して呼ばれたと言う説である。

価格説は物価には変動があり時代によっては16文が当てはまらないとして8対2の配合説を唱える人が多いようだ。確かにつなぎとして小麦を2割ほど入れると良い蕎麦を打つことができる。蕎麦粉10に対して小麦粉2の割合で蕎麦を打つ事もありこれを業界では外二八と言う。こちらも風味の強い良い蕎麦となる。

どちらの説も、もっともらしい根拠もあるが否定する根拠もあり確かな処は分からない。当時の風潮等を考えると案外単純に価格から客がそう呼んだあたりが真相なのかもしれない。

小麦粉に含まれるタンパクのグルテニンやグリヤジンはグルテンとなり網目構造を作り弾力を形成する。饂飩やラーメンを一晩寝かせたりするのはグルテンの作用でこしを出すためである。

蕎麦を打つ時のつなぎには信州では地元でとれる山芋を使う事が多い。新潟では海藻の一種のフノリを使う地方がある。しこしことした触感と、のど越しの良い蕎麦として十日町の「小嶋屋」等が有名である。山間部のある地域ではヤマゴボウの葉の繊維を使う処もある。鶏卵を使ったらんぎり蕎麦もありこちらは更科系の蕎麦店で打たれる事が多い。

蕎麦は「挽きたて打ちたて湯がきたて」と言われる。挽いたそば粉は空気中の酸素により酸化し風味が悪くなる。保管温度も低温でなければならない。したがって挽きたてに限ると言う事に成る。挽く時に熱が掛かってはならないので昔ながらの石臼で挽くのが良いとされる。

蕎麦を打つ時熱を掛けず手早く空気を含まないように。使う水分も最小限にかつ粉っぽくならないように等々熟練の技と繊細な感覚が必要となる。湯がき加減も芯に熱が通る直前のタイミングにてザルですくい上げ冷水で一気に引き締める。放置しておくと水分が芯までしみこんで蕎麦が伸びてしまうので食べる方ものんびりしては居られない。

蕎麦が伸びるとよく言われるがこれは蕎麦の成分が水溶性による物と考えられる。蕎麦は作り手も食べ手も江戸っ子気質のせっかちな人が良いのかもしれない。

白米を食べる江戸では脚気の患者が多く江戸わずらいと言われた。ビタミンB1の欠乏症であるが蕎麦好きの人はなりにくかったのではないかと考えられる。そばのタンパクや栄養素は水溶性なので一部が茹で釜に流出してしまう。蕎麦作りに使う打ち粉は花粉(はなこ)とも言われるそば粉を使うがこちらも茹で湯に溶けてしまう。

蕎麦店に行くと蕎麦湯が出されるが小堺化学工業(株)顧問である鎌倉女子大名誉教授の成瀬宇平はこれを是非頂くよう推奨している。蕎麦を食べ蕎麦湯を飲む事でルチンやビタミンB1を無駄なくとる事が出来栄養的にも理にかなった物となる。蕎麦店にもこだわる店があり中にはわざわざそば粉を溶いてどろっと濃くした蕎麦湯を出す店もある。

その8 / 蕎麦つゆ

いくら良い蕎麦を打ってもそばつゆが悪ければ美味しく蕎麦を食べる事が出来ない。まさに麺としての蕎麦とつゆがあって蕎麦の味は形成される。生かすも殺すもつゆ次第となる。

蕎麦つゆに用いられる「かえし」は醤油、味醂に砂糖等を加え寝かした物である。寝かせる事で醤油のかどが取れ熟成されたまろやかな味となる。一般に加熱をして保存した物を「本かえし」。醤油を加熱しないでなじませた物を「生かえし」。加熱した後に未加熱の醤油を更に加えた物を「半生かえし」等と呼んでいるようである。

この「かえし」に東京では主に鰹節から取った「だし」を加えて蕎麦つゆとしている。精進料理の名店でも美味い蕎麦を出す店がある。しかしもう一つ蕎麦の味にうなずけない事があり考えてみるとやはり「だし」の味と思い当たる。精進料理では鰹節が使えないのでどうしても昆布主体に椎茸等のだしになる。本枯節を使った江戸前のだしに慣れ親しんだ舌には何か足りない気になる物である。

地方によっては鰹節だけでなく鯖節や他の魚でだしを取るところもある。新潟県佐渡小木町にある「七右衛門」は佐渡産のそば粉で打たれた蕎麦をぶっかけ蕎麦として提供する明治末期創業の名店である。田舎風の蕎麦にアゴダシ(トビウオのだし)のつゆで評判を得ている。

兵庫県出石は市内に40件以上の「出石蕎麦店」がある。城主が信州上田から国替時に蕎麦職人が移り住んだ事が発祥で伝来300年とされる。そばの実を丸引きにした風味のある蕎麦を出石焼の小皿に盛って提供する。だしはメジカ(宗田節)に昆布等を合わせて作られる。創業300年と言われる「南枝」の他、「入佐屋」、「永楽蕎麦」等が有名店である。

蕎麦と魚の相性では「にしん蕎麦」がある。東京でも「にしん蕎麦」を提供する店は多いがやはり発祥は京都らしい。明治期に総本家にしん蕎麦松葉の二代目松野与三吉が発案したと言われている。「松葉」は元祖にしん蕎麦の味を守って繁盛している。

廣島県福山の名代御蕎麦処大市では季節になると名産の牡蠣を使った「かきそば」を提供している。廣島牡蠣の風味が蕎麦と絶妙で評判が良い。「茅場町長寿庵」のように都内でも季節になると牡蠣蕎麦を提供する店は増えて来ている。

「長寿庵」と言う屋号を持つ蕎麦店は多い。歴史を遡ると元禄のころ三河蒲郡出身の三河屋惣七が江戸京橋にて長寿庵と言う蕎麦店を開業した事につながるらしい。明治5年の大火の後に銀座の街が煉瓦造りとなった。この時に銀座竹川町に煉瓦造りの洋館として蕎麦店長寿庵も生まれ変わった。当時の蕎麦屋としては異例のたたずまいにて評判を得たらしい。

ここで修業した弟子たちが次々と独立して長寿庵を名乗ったようである。現在既にこの店は無いが銀座7丁目の跡地に建つビルには「元祖長寿庵の碑」が刻まれている。現在長寿庵を名乗る都内の店としては茅場町長寿庵が老舗として有名である。「赤坂長寿庵」や「銀座長寿庵」、「両国長寿庵」等を中心に孫弟子や又その弟子によってそれぞれの長寿庵の会を作っていると聞く。

その9 / 更科蕎麦

信州信濃の新蕎麦よりもと都々逸にも歌われたように信州は江戸の昔より良い蕎麦の収穫される土地として知られていた。黒姫や戸隠の霧下そばは寒暖の差により国産そばの中でも特に品質が良いと言われている。

保科家の江戸屋敷に出入りしていた信州更級の反物商、布屋太兵衛は蕎麦打ち上手として知られていた。保科家の勧めもあり信濃布の商いから蕎麦屋に転じ保科家江戸屋敷に程近い麻布永坂町に店を構えた。看板は「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」と掲げた。

更科は信州そばの集散地でもあった更級の「級」の音に保科家から許された「科」の字を当てたものと言われている。創業は寛政元年(1789年)と伝えられている。現在一般的に色の白い細打ちの蕎麦を更科蕎麦と言いこの店が発祥とされている。

場所柄大名家や寺社に出入りをするようになり更科蕎麦は御膳蕎麦とも言われた。玄蕎麦の殻(果皮)を取り除き丸抜きにして石臼でゆっくり挽いて行くと粒が割れて最初に中心部の柔らかい部分が粉となる。きめの細かい色の白いそば粉は一番粉と呼ばれこれを更科粉と呼ぶ場合もある。

石臼のすき間を少し開けて割抜きと言う方法で粒が二つ三つに割れた上割れと言う状態で割り抜いた物を製粉したそば粉を本来は更科粉と言うらしい。使われる粉の特徴によって色の白い細くて長い蕎麦を打つ事が出来る。永坂更科布屋太兵衛のトレードマークとなっている細く長い蕎麦を箸で高く持ち上げて食べようとしている町人の絵は更科蕎麦の特徴をよく表している。

麻布十番大通り沿いには2件の更科蕎麦が店を構えている。「総本家永坂更科布屋太兵衛」と「総本家更科堀井」である。どちらも創業寛政元年創業で総本家を名乗っている。

永坂更科は代々布屋太兵衛を名乗って来たが明治になり苗字を堀井と名乗った。戦後堀井家は一度店を閉め、会社組織となった永坂更科は更科の伝統を引き継ぎながら規模を大きくした。登録商標を持つ永坂更科布屋太兵衛は多くの支店を持ち更科蕎麦の普及に貢献している。

堀井家直系の更科堀井は更科蕎麦の伝統を守り繁盛している。少々複雑な事情はあるがどちらも更科蕎麦の名店である。

更科蕎麦を初めて食べた人の中には自身の持つ蕎麦のイメージからか首をかしげる人もいる。そう言う人を連れて更科堀井を訪ねた時は更科蕎麦と太打ち蕎麦の両方を食べ比べる事を薦めている。

そうするとまず甘つゆと辛つゆが運ばれてくる。つゆの違いを口にして待っている内に色の白い更科蕎麦が運ばれてくる。次に色の黒い太打ち蕎麦を食べる。殆どの人がその食感の違いと共にどちらにどのつゆが合うかが分かると言う。

そして更科蕎麦の味わいに納得の笑顔を見せてくれる。色の白い更科蕎麦は蕎麦生地に柚子等を練り込んだ変わり蕎麦を楽しむこともできる。

寛政3年(1792年)創業の芝大門更科布屋には月替わりで楽しめる12種の変わり蕎麦がある。収穫時期の異なる国内産のそば粉を使う生粉打ち蕎麦と変わり蕎麦にて季節も味わえる名店である。

その10 / 討ち入り蕎麦

蕎麦店のなかには寺方(てらかた)蕎麦を名乗る店がある。代表的な蕎麦店としては墨田区向島の名店「長浦」があげられる。「長浦」によると慶長年間に妙興寺と言う禅宋の寺にいた恵順と言う禅僧が「蕎麦覚書」と言う15品に及ぶ蕎麦の食法を記録した。「長浦」の先代はこの記録を研究し自店の蕎麦に取り入れたとの事である。

この妙興寺は愛知県一宮市にある禅宋の寺で貞治4年(1364年)創建と伝えられる。俗に「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われた古刹である。禅林の薫り高い一品には妙興寺蕎麦と名付けたとの事である。今は品書きから無くなってしまったが以前は蕎麦雲水、蕎麦般若、等他店にはない品書きも多かった。

妙興寺蕎麦は椀盛の蕎麦に白髪大根、煎り胡麻、海苔を添え寺方伝のつけ汁で禅味を表し、蕎麦般若は蕎麦に日本酒を練り込んで蕎麦と酒の香りを楽しむ物である。創業時には町方の蕎麦と一風異なる蕎麦を看板としたようである。

門前蕎麦とうたっている蕎麦店もありこちらは有名な寺の近くにあり訪れる参拝客向けに店を出して繁盛している。良く知られるところでは信州善光寺周辺や福井県の「永平寺蕎麦」、西東京調布市の「深大寺蕎麦」等がある。

八王子の高尾山では冬蕎麦と言って参道の各蕎麦店がそろって温かいとろろ蕎麦をメニューに入れている。都内最古の寺と言われる浅草寺界隈も有名な蕎麦店は多い。

明治3年創業の浅草「尾張屋」は永井荷風が足しげく通った事でも知られている。天ぷら蕎麦が名物で蕎麦のどんぶりからはみ出した大きなエビの天麩羅が客に受けている。神社の近くにも蕎麦処は多く信州戸隠神社周辺の戸隠蕎麦は全国的にも有名である。

文京区の根津権現近くの「夢境庵」は創業30年と歴史は浅いが地元で評判の蕎麦店である。オリジナルの権現蕎麦は京がんもの上に蒲鉾を切って作った鳥居を乗せて提供される。

年の始めの食べ物が餅を入れた雑煮やおせち料理ならば年の終わりに食べるのが年越し蕎麦である。行く年を偲んで蕎麦をすすり来る年が良い年であるよう願って蕎麦をすする。細く長く縁起にかけた物と言われている。

引っ越し蕎麦と言われ引っ越しの挨拶代わりに隣近所に蕎麦を振舞う風習もあった。そばに越して来ました末永くよろしく、と言う気持ちを長く細い蕎麦で表現したようである。残念ながら今では引っ越しに蕎麦を食す事は少なくなったようである。

以前東京ではこれから討ち入りだから蕎麦を食べに行こうと言った物である。今はそんな粋な人もいなくなったが赤穂浪士が討ち入りの前に蕎麦屋に集まったと言う話にちなんでの事と思われる。大事な商談や交渉事等がある前に討ち入りに成功した赤穂浪士にあやかって蕎麦を食べ話がうまく行くようにと言う意味合いである。

12月14日討ち入りの日に食べる蕎麦は討ち入り蕎麦と言われる。討ち入り前、義士が蕎麦屋に集まったと言う話は少し芝居がかっているが義士祭には今も蕎麦が振舞われる。本所松坂町吉良上野介屋敷跡にも近い両国の「玉屋」と言う蕎麦店には討ち入り蕎麦と言う品書きがある。大きながんもどきや大根おろし等が具となっていてそれぞれ大石内蔵助の陣太鼓、雪、夜を表していると言う。

その11 / おらが蕎麦

「蕎麦うまし千里いとわず来し我に」と言う句がある。この句が名句なのかどうかは分からないが蕎麦好きならば共感出来る物がある。どこそこの蕎麦を目当てに遥々出かけて行く。たどりついてありついたその蕎麦が噂どおりであれば幸せな気持ちになる。千里とは言わないまでもそんな経験がある人も多いのではないだろうか。

この句は料亭「なだ万」を実家に持つ俳人楠本憲吉の句である。以前聞いた話であるが山形の蕎麦組合の連中が東京旅行に出かけた。浅草見物をしたついでに「並木藪」で蕎麦を食べ自分たちの蕎麦への取り組みを考えさせられ山形の蕎麦の向上を図ったと言うのである。現在山形の蕎麦は総じてレベルが高く東京等からわざわざ蕎麦を食べに出かける人も少なくない。

全国に蕎麦を食べに出かけてみる価値のある蕎麦処がある。また風情を持った歴史のある店も多くある。北海道釧路の「竹老園東屋総本店」を訪ねた時は東京から遠く離れた北の地に味、風格共に立派な蕎麦屋がある事に驚かされた物である。

盛岡の「直利庵」では秋の鮎蕎麦、冬の鱈子天蕎麦も捨てがたいがやはり盛岡名物の椀子蕎麦に挑戦したい。「山形萬盛庵」では紅花蕎麦、ナメコ蕎麦、むき蕎麦も味わいたい。各地の蕎麦店を訪ねると地方の特産品を使った名物蕎麦や独自の特徴ある蕎麦で売っている店も多い。

東京でオリジナルの蕎麦を提供する店と言うと「銀座よし田」のコロッケ蕎麦がある。銀座よし田は明治18年創業、浜町よし田」の伝統を引き継ぐ名店である。コロッケ蕎麦のコロッケはパン粉や衣をまとわずミンチにした鶏肉と山芋、卵を使用したつくねに近い物である。このコロッケ蕎麦を目当てによし田を訪れる常連は少なくない。ある時たまたま銀座よし田の支店を見つけて入ったことがある。メニューも見ずにコロッケ蕎麦を頼んだところ店員の女性が無いと言う。残念売り切れかと思うとメニュー自体に無いと言われた。話を聞くと当初は置いていたのだが殆ど注文が無くメニューから外す事になったと言う。本店の名物も処変わればと驚いた物であるが経営が違うのか等定かな処は分からない。

蕎麦好きの人の中には太打ちの食べごたえのある蕎麦やこしの強い物を好む人もいる。台東区竜泉の「角萬」では来店客の八割方が「ひやだい」と注文をする。メニューにはそんな品書きは無いが冷やし肉南蛮の大盛りが丼で運ばれてくる。太打ちの味わいのある蕎麦とボリュームで常に客で込みあう人気店である。

太打ちの蕎麦では江戸川区の「矢打」もいつも行列の出来る店として地元の支持を受けている。鶯谷駅並びの「公望荘」は錆刀御手打ち御免を看板に、こしのある蕎麦を売り物にしている。

「信濃路は(信濃では)月と仏とおらが蕎麦」、そんな句があり一茶の句と言われて旅情を誘う。後の誰かが一茶の句として信州名物をあてはめたと言う説もある。確かに信濃路の風景や名物をうまく言い当てているが風刺のきいた一茶の句とは言い難いようにも思える。ともあれ、おらが蕎麦を探して食べ歩き自分好みの蕎麦店を見つける。それも風流と思うのは食いしん坊ゆえであろうか。

その12 / 変わり蕎麦

変わり蕎麦とは簡単に言えば蕎麦切りの中につなぎの目的ではなく香りや味、見た目の色を楽しむ為の物を練りこんだ蕎麦である。

創業天明2年(1782年)創業、「小堀屋本店」には黒切り蕎麦と言い昆布を加工して練り込んだオリジナルの真っ黒な蕎麦がある。店舗は水郷佐原の小野川沿いにあり県の有形文化財に指定されている。大阪曽根崎お初天神近くの「瓢亭」では夕霧蕎麦と言う柚子を練り込んだ蕎麦がある。生卵を入れた蕎麦つゆで柚子の風味を味わう名物蕎麦である。名前の由来は近松門左衛門の人形浄瑠璃曽根崎心中の夕霧太夫からと聞く。

鹿児島県知覧武家屋敷の近くにある「吹上庵」は地元産の良質な知覧茶を使用した茶蕎麦が評判で抹茶の色と風味が楽しめる。

慶応2年(1866年)創業静岡の「安田屋本店」にも茶所静岡の抹茶を練り込んだ茶っきり蕎麦がある。安田屋は毎週新しい変わり蕎麦を提供する企画を行い50種以上の変わり蕎麦を捜索したと聞く。

浅草の蕎麦上人と言う店では5色蕎麦と言って五つに区切られた盆に盛られた変わり蕎麦を含めた5種類の蕎麦が食べられる。この店は蕎麦教室も開いており、そこで学んだ生徒が開業した蕎麦店は多い。更科系の蕎麦は店では季節の変わり蕎麦を提供する店が多い。

桜エビ、春菊、ふきのとう、桜、木の芽、葉わさび、よもぎ、笹、しそ、菊、くちなし、青柚子。最近ではトマトやカボチャ等の蕎麦切りもあるようだ。近頃は「そばそうめん」と言って見た目は素麺でそば粉を使用した乾麺があり素麺の食感に蕎麦の味わいがあり中元ギフト等に人気がある。これも蕎麦の進化形であろうか面白い試みである。

蕎麦屋で粋に酒を飲むのも江戸っ子の楽しみであった。板ワサは蒲鉾にワサビ漬をそえて食べる蕎麦店のつまみの代表である。蕎麦のだしを使っただし巻卵や海苔をあぶりながらつまみにする店もある。蕎麦寿司を提供する店もありそんな店ではそれが酒の肴になる。

蕎麦を食べる前に飲む酒は蕎麦前とも呼ばれるがこれを台抜きで楽しむのも通とされる。台抜きとは蕎麦抜きの事で天蕎麦台抜きと言えば天麩羅蕎麦の蕎麦が無い物が提供され鴨南台抜きは鴨南蛮の蕎麦抜きである。そば団子やそば汁粉等の甘味を出す店もあり案外フアンも多い。

夏の納涼床で知られる鴨川沿い「先斗町歌舞練場」並び「有喜屋」は京都の蕎麦の名店である。3代目三嶋吉晴は平成23年に麺技能士として初めて現代の名工に選ばれた。20歳の時から正当な江戸の蕎麦打ち技術を学ぶべく上野藪蕎麦にて修業し日本麺業団体連合会会長も務める店主鵜飼良平の弟子にあたる。

東京に花開いた蕎麦文化は江戸、明治の昔から蕎麦にうるさい江戸っ子とそれに応えるべく創意工夫を重ねた蕎麦職人によって育まれた。伝統を重んじながら新しい試みも行われている。収穫されたそば粉をマイナス60度の超低温冷凍庫で保管すると一年中新蕎麦の味と香りが楽しめる。何処にそんな冷凍庫があるのか実は冷凍マグロを保管する冷凍庫が利用される。

観賞用か高嶺(たかね)ルビーなる赤い花を咲かすそばも導入されハイルチンなるルチンを多く含むそばも収穫されるようになった。春そば夏そば秋そばと言うように収穫期の異なる蕎麦も楽しむことも出来る。今後蕎麦の未来は如何な物となるのだろう。

※この冊子に掲載されている情報は2016年8月現在のものです。(小堺化学工業株式会社 青木 知廣)