食のサロン 「江戸前鰻の話」

その1 【待たされて美味しい?】
その2 【鰻料理は蒲焼につきる?】
その3 【落語も鰻も庶民の文化?】
その4 【鰻料理は国際色豊か?】
その5 【蒲焼はお重で食べる?】
その6 【ところ変われば鰻も変わる?】
その7 【歴史の町には鰻店?】
その8 【故郷は鰻に聞いてみる?】
その9 【タレは鰻店の宝物?】
その10【鰻店はなんと言っても江戸東京?】
その11【鰻は栄養の宝庫?】
その12【天然鰻は腕で仕上げる?】

その1【待たされて美味しい?】
 鰻を食べに行って料理をせかすのは野暮な話で気の短い江戸っ子でも鰻が焼きあがるまでじっと待つものだ。鰻屋ではそうあるものと年配者から教わった物である。客の顔を見てから鰻を割いて串にさし素焼きにした後、蒸してからタレを付けて焼き上げるとなると時間が掛かるのは道理である。そういう理由で鰻店では待つ事も苦にならないと言いたい処であるがそれにしてもと言う経験も随分ある。
 南千住にある「尾花」は夏場には店の外に並んで店内に上がるまでだいたい1時間は掛かる。日曜日ともなると更に 30 分の覚悟も必要になる事もあり店内に入ってからも注文をして蒲焼が提供されるまでに座敷で待つこと1時間とあいなる。最近では並んでいる間に注文を受けに来てくれるので提供される時間は以前より早くなってきたようであるがそれ相応の覚悟がいる。
 土用の丑の日になると鰻屋は何処も混むのでわざと翌日に鰻を食べに行ったことがある。もちろん空いているのではないかと算段しての事である。築地で待ち合わせ「宮川本店」へ行った処全くの当て外れで客が行列をしている。結局鰻にありつけたのは並んでから 2 時間以上過ぎた閉店近くであった。皆同じように考えての行動であったのかは定かでは無い。ちなみに宮川を名乗る鰻店は多く「日本橋宮川」「根岸宮川」「小伝馬町宮川」等名前を上げれば切がない。「築地宮川本店」がその本家筋となる「世田谷宮川」「荻窪宮川」など直接に暖簾分けにて創業した店は「築地宮川本店」と共に宮川のれん会を結成している。
 待ち時間の長さなど自慢にも何もならないが名古屋の熱田神宮の近くに元祖櫃まぶしを名乗る「蓬莱軒」がある。何度か訪れている店であるが、ある時ゴールデンウィークのさなかに訪ねた事がある。覚悟はしていたが案の定、店の前には大行列が出来ている。おりしも櫃まぶしブームが起きていて東京でも櫃まぶしと言う鰻の食べ方が紹介されるようになっていた頃である。1時間以上待ってやっと店の前の行列の先頭の方になって来た。もう少しで櫃まぶしにありつけると思いつつ 30 分ほど待って店に入るとそこには大きな待合室があり中に順番待ちの人がうごめいている。ショックは大きかったが今さらあきらめる分けにも行かずにじっと我慢の子となった。空き切ったお腹に櫃まぶしがおいしかった事は言うまでもないが 3 時間近く待った疲れもどっとでて鰻を食べて活力を付ける目的が疲労困憊となった事を思い出す。そうまでして鰻を食べたいか自問自答でもあるが鰻好きの辛い処である。
 せかすのは野暮と言っていた昔の人はよほど気が長かったかと言うとそうでも無くもう少し風情のある鰻の食べ方をしていたようである。柴又帝釈天近く江戸川沿いにある「川甚」等の川魚料亭には風呂が用意されていて客は浴衣に着替え、ひと風呂浴び庭を愛でながら座敷でくつろいで鰻の焼けるのを待っていたようである。なんとも優雅な物であり鰻の味も一段とおいしく感じたであろうと想像がつく。残念ながら「川甚」では今は風営法の関係からか風呂に入りながら鰻の焼きあがるのを待つ事は出来ない。「川甚」は夏目漱石、谷崎潤一郎、松本清張などの文学作品の舞台として実名で登場する事でも知られている。

その2 【鰻料理は蒲焼につきる?】
 新種のウナギと思われる未知の古代ウナギが発見されたとのニュースがあった。発見者はパラオ在住の日本人海洋生物研究家の坂上治朗で発見場所は西大西洋パラオ諸島の水深 10 数メートルの海底洞窟との事である。9 匹捕獲されたが成魚は黒褐色で全長 20 センチ一般的なウナギ類より脊椎骨の数が少なくずんぐりした体で、独立した尾ひれがあり特異な形態を持つ。現存する約 7 千万年前のウナギ類最古の化石より原始的な特徴を持ち恐竜時代の姿をとどめているのではないかとされている。ウナギは人類誕生の遥か以前から地球上に存在していた事になるが鰻好きの日本人は何時ごろから鰻を食していたのであろうか。
 鰻が書物に登場した古い文献では和歌に詠まれた記録がある。万葉集で知られる奈良時代の歌人大伴家持が吉田石麻呂に夏痩せに良い鰻を捕って食べてはどうかと言う意味の歌を詠んでいる。痩せぎすであった石麻呂を家持がからかっての歌とも言われているが当時から既に鰻は滋養がある食べ物とされていた事が窺い知れる。しかしその頃鰻はどのように調理されて食べられていたのかは分かっていない。
 現在定番となっている蒲焼は江戸時代中期に関西の調理方をまねて江戸の職人が完成させたと言う説が一般的に言われている。それ以前は鰻を筒状にぶつ切りにして切り口に串を刺して焼いていた物と思われる。その時の姿が水辺にある蒲の穂に似ていたので蒲焼きとなったと言う説が蒲焼の語源であると諸説の中で定説となっている。
 日本において色々な食材がある中で鰻ほど調理法が確立され定番となっている食材も珍しいのではないだろうか。鰻を食べに行こうと誘われた人は間違いなく蒲焼かそれをご飯に乗せた鰻重、鰻丼をイメージするはずである。誘った人ももちろんそれをイメージして、となるが他の食材ではそうはいかない。たとえば牛肉を食べに行こうと言われたらある人は、すき焼き、又ある人はステーキ、焼肉やしゃぶしゃぶ、ローストビーフやビーフシチューを思い浮かべる人もいるかもしれない。誘った人は実はハンバーグだったと言う落ちもあるかもしれない。三重県の志摩に「川八」と言う色々な鰻料理を提供していた旅館があったがやはり最後は蒲焼に限ると言う結論になるらしい。
 さて現在の鰻好きは鰻屋でどのような楽しみ方をするのであろうか。まずは肝焼きにビールで喉を潤しながらウザク(鰻の酢の物)、う巻(蒲焼を芯に巻いた卵焼)の順に箸を運ぶ。次にお銚子と共に運ばれてきた白焼きにワサビを効かせて締めは好みで蒲焼とご飯か鰻重のどちらかを肝吸いと共に。沿えられる香の物はもちろん奈良漬でなければならない。これが鰻好きの思い描く鰻店での定番の食事と言う事になろうか。
 東京下町には鰻より庶民の懐にいくらか優しいドジョウ専門店がある。台東区浅草のドジョウ料理店「飯田屋」では私もそうする事が多いがドジョウ鍋を食べて締めには鰻重と言う客も結構ある。江東区高橋の老舗ドジョウ料理店「いせき」ではドジョウの抜き鍋にすき焼きのように生卵を付けて食し締めに鰻の白焼き丼と言うのが私の定番である。ちなみに抜き鍋とは鰻の蒲焼のように頭を落し開いて骨、内臓など除いたドジョウを用いる鍋である。どちらの店も並みの鰻店ではかなわない鰻を提供していて鰻は専門店でと言う概念が時には崩される事もあり面白い。

その3 【落語も鰻も庶民の文化?】
 鰻屋の隣に住んでいた男が鰻の蒲焼を焼く匂いをおかずにして白いご飯を毎日食べていた。ある時ケチで知られた鰻屋の主人が乗り込んできて当店の鰻の匂いでご飯を食べているのだから代金を払えと言う。言われた男は平然としてお金をチャリンと投げ出して音だけ持って行け。小噺であるが鰻を焼く匂いは香ばしく食欲をそそり、それだけでご飯が食べられるような気がするのも不思議ではない。
 「江戸前の鰻の話」が出て来る古典落語は多くあり同じ「江戸前の鮨の話」が落語の題材に出てこない事に対して対照的である。落語に出て来る鰻の話をいくつか紹介してみよう。「鰻の幇間が金のありそうな旦那を見つけて、お得意のよいしょで持ち上げ鰻をご馳走してもらう事になるが、逆に騙されて飲み食いした鰻屋の代金やお土産代まで払わされると言う話。「素人鰻」は演者によって若干話の設定が変わる「鰻屋」と言う落語にもなるが、鰻職人が居なくなって鰻をさばけない店の主人が鰻相手に悪戦苦闘。やっと捕まえた鰻がにょろにょろと手から逃れようとするのを追いかけて店の外に出て行ってしまう。何処へ行くのかと尋ねられ「前へ廻って鰻に聞いてくれ」と言う落ちになる。
後生鰻は鰻屋がさばこうとする鰻を、通りかかったご隠居が過分の価格で買い取り川に戻して後生をする。それに味を占めた鰻屋が何度も繰り返し鰻をご隠居に売り渡す。仕事をしなくなった鰻屋が、売り渡す鰻が無く代わりに赤ん坊をさばくと言ってご隠居から多額のお金を巻き上げる。ところが、このご隠居がいつもの鰻のつもりで川に赤ん坊を投げ入れてしまうと言うブラックユーモア的な落ちとなる。
 これらの鰻の出て来る話は、江戸っ子が鰻好きであった事は想像できるが、残念ながら美味しそうな鰻は登場しないようである。当時から庶民には高根の花であったのか落語「たがや」では、主人公の「たがや」が侍相手に「二本差が怖くて町を歩けるか、気の利いた鰻の蒲焼なら串を3 本 4 本も刺してらぁ、そんな鰻食ったこたぁねぇだろう…おれも食った事が無い」と情けないたんかを切る。「子別れ」でも真人間となった熊五郎が自分の遊興癖で分かれる事になった息子に出会い明日鰻屋で鰻をご馳走しようと約束をする場面がある。真人間になって息子に鰻を食べさせる事が出来るまでになったと言う事を現している。
 鰻好きとしては名人文楽や圓生、志ん生に落語の中で美味しそうに鰻を食べる処を演じてほしかったと思うのであるが、残念ながらそのような場面は話の中に存在しない。落語家の中でも志ん生は鰻好きで知られていたがその息子の志ん朝は鰻を食べなかったと聞いた事がある。志ん朝が惜しまれて世を去った後に実の姉がそのことに触れた話を記した書物を読んだ。それによると実は志ん朝は鰻が大好物であったが、落語が上手くなるように誓いを立てて鰻断ちをしていたと言うのである。稀代の名人であった志ん朝は天から授かった素質を持っていながら稽古に稽古を重ねた努力の人であったと分かり感慨深い。
 過日麹町の老舗鰻店「秋本」で鰻を食べていると笑点でお馴染みの好楽師匠が一門と思われる落語家を引き連れて入って来て楽しそうに談笑しながら鰻を食べていた。落語家ならずとも鰻を食べると笑顔になれるのは鰻好きの特権なのだろうか。

その4 【鰻料理は国際色豊か?】
 イギリスに嫁いでいる同い年のいとこがいて、イギリス人のご亭主との間に娘1人と息子2 人の子供がいる。ある時叔母の家を訪ねるとその息子 2 人が夏休みを利用して遊びに来ており、訪ねた私を連れだって鰻を食べに行くことになった。ところが、このイギリス育ちの兄弟は鰻を食べる事が出来ずに鳥丼を食べると言う。叔母の話によると以前日本で鰻を食べさせたところ、兄の方は食わず嫌いであったが弟は食べて美味しかったようであった。いたずら好きの兄が鰻の蒲焼をヘビだと言って騒いだので、弟も食べなくなってしまったとの話である。
 イギリスでも昔はテムズ川のウナギを細かくしてパイの具材としていた事もあるようだが、今は主流のビーフパイと名物キドニーパイと言う事になるらしい。私の知るところでは、ドイツあたりではウナギの燻製を食べるし、同じヨーロッパでもオランダ・ベルギーではぶつ切りにして煮込んだウナギ料理は名物料理でもある。ギリシャではアンギラスと言うウナギの稚魚をたっぷりのオリーブオイルでソテーして食べるが、近頃では高級料理と成ってしまい庶民の口に入らなく成っているようである。美食の国フランスでは、ウナギ料理の種類も多いがワインで煮込むマトロットと言われる料理が知られている。
 日本に来て初めてウナギを食べて好物となった外人さんも多いらしい。浅草の老舗鰻店「色川」の主人によると、外人客も結構訪れるが面白いのは鰻重を食べる時に上の蒲焼だけを食べてしまい、次に残ったタレのしみたご飯だけを食べるような食べ方をする方が多いとの事である。日本人のようにご飯に鰻をのせて一緒に口に運ぶような食べ方は思いつかないのかもしれない。
 上野池之端の「亀や」と言う鰻店で食事をしていると、隣の席に外人さんが1人で入って来て鰻重とグリーンティを頼んだ。店には緑茶が無くほうじ茶となる旨を中居さんが説明しようとするが、日本語が理解できない外人客が何度も注文をし直すがらちが明かない。緑茶くらい出してあげられないのかと横で気をもんでも見たが、店にはあいにく緑茶を置いて無いようで最後まで緑茶は提供されなかった。その外人にとっては鰻重とグリーンティは日本の味としてこだわりがあったのかもしれない。
 神楽坂の「たつみや」と言う老舗鰻店の前で、若い娘さんが 2 人で何やら携帯電話をかざして写真を写すようなそぶりをしている。私たちが店に入ると後から入って来て隣のテーブルに座った。写真を取っていたのではなく、携帯サイトの画面で店の外観写真を見て目的の店かどうかを 2 人で確かめ合っていたらしい。日本のお嬢さんと思っていたが、どうやら日本語が分からないようで注文の時も携帯画面で料理を確認しながらの注文であった。料理を待っている間にハングル語のガイドブックを出して見だしたので韓国の方と察しがついた。日本へ旅行したら、日本料理の鰻重を是非食べるようにと言われて来たのだろうかと勝手に想像をした。
 思いだしたのはしばらく前までは韓国へ旅行すると、ウナギの革で作られた財布がお土産店で良く売られていた事である。残念ながら韓国を訪れてウナギ料理を食べた記憶は無いのだが、ウナギの革を使った製品が沢山あると言う事は鰻を食べる習慣もあるのではと思われる。しかし韓国の方が日本を訪れてわざわざ鰻重を食べると言う事は、蒲焼のような料理は無いのだろうか。謎を解明すべく今度韓国を訪ねた時は是非ウナギ料理を探してみたい物である。

その5 【蒲焼はお重で食べる?】
 本来江戸前の鰻重のご飯は天重等の他の重箱物とは違っていた。注文を受けてから鰻を割いて焼きは始めるが同時に米を砥いで火にかける。炊きあがりと同時に蒲焼が焼きあがるように頃合いを見て調理してゆく。炊きたてのご飯を蒸らさずに重箱によそってその上に蒲焼をのせて蓋をして重箱の中で蒲焼の香りと共に蒸らすのである。客が来るたびに鰻を調理するのはもとよりご飯もその都度炊く事になる。昔はこの方法にこだわった鰻重を提供する老舗も多かったが今は殆ど無くなってしまった。それでも十数年前まではこの方法で鰻重を提供する店が残っており、そんな鰻重を食べると店の心意気に感激もしたものである。
 もっとも鰻重を食べて焼き立ての暖かいままの蒲焼が、鰻の香りをまとって蒸されたご飯にのっていると、わかる客も少なくなってしまったのも事実である。そのような店では運ばれた鰻重の蓋をすぐには開けずに、鰻とご飯が重箱の中で蒸されるタイミングを持って蓋を開けるのも鰻通と言う事になる。現代の感覚では一般的に少し軟らかめのご飯よりも、しっかりと蒸らした少し硬めのご飯の方がおいしいと感じるのかもしれない。
 鰻好きを納得させるこだわった鰻重を食すのも今は昔の話となりつつある。なぜそのような方法で鰻重を提供したかと言うと、蒲焼の香りを逃さない事と暖かい鰻を提供する事に目的があったと考えられる。鰻の蒲焼をおいしく食べるにあたっては温度が大切になる。一般に鰻のたんぱくやコラーゲンは 40 度から70 度位の温度で食すのがおいしいと言われている。確かによほど蒸しを聞かせた鰻で無い限り冷めた蒲焼は食べにくい。以前は蒲焼を入れる容器は、重箱を二重にして底の方にはお湯を入れて冷めないように提供する店もあった。
 上野池之端にある「伊豆栄」では、宮内庁御用達の鰻は冷めないようこの要領で暖かい蒲焼を運んだと聞いた事がある。ふっくらとした蒲焼はやはり焼き立てを食べるのが一番と言う事になる。
 赤坂に「重箱」と言う変わった店名で江戸時代創業の老舗鰻料亭がある。子供の頃に立派なお重で蒲焼が提供される店と聞いた記憶があり、以来鰻重の重箱に由来する店名なのかと勘違いしていた。久保田万太郎の「火事息子」はこの「重箱」をモデルとして書かれており、その中に店名の由来が書かれている。それによると浅草の山谷にて、初代が鯉こくや鰻飯を出す店を創業し繁盛した。近くに重箱稲荷と言う小さなお稲荷さんのお宮があり、その地の鰻屋と言う事で重箱の鰻屋と呼ばれるようになりそれが後に店名になったようである。
 久保田万太郎は重箱稲荷を世にも珍しい名前の稲荷と書いているが、そのいわれは記されていない。調べてみると、三代将軍家光が鷹狩りに行き鷹を放したがどこかへ飛び立って戻ってこない。どうした物かと困っていると近くに稲荷のお宮があり、そのお宮に弁当として持参していた重箱を供えるとその鷹が舞い戻って来て鷹狩りを続けたと言う逸話に由来するらしい。もっともこの由来のある稲荷は品川区にあるらしく、浅草山谷にあったとされる重箱稲荷はその末社なのかは定かでは無い。子供の頃に思っていた勘違いも元をたどれば食べ物を入れる重箱に行き付いたようで面白い。ちなみに久保田万太郎と当時の「重箱」の主人は浅草の小学校の同級生であったと言う話である。

その6 【ところ変われば鰻も変わる?】
 ところ変われば鰻も変わる。ご存知のように鰻を割くのも関東は背開き、関西は腹開きと言うように、関西と関東では違いがある。武士の町江戸では、腹から割くのは切腹につながると縁起を担ぐ。関西大阪等は町人の町なので、腹の中に隠し事が無いよう腹から割くと言われている。江戸関東風の鰻は、素焼きした後に蒸して軟らかくしてから、たれをつけて焼きあげる。その為背から割いた方が串をしっかり刺せて、その後の工程が取りやすい事もあるようだ。関西では蒸さずに仕上げるので、串を打たずに焼き上げる事も多いようである。
 鰻の食べ方も全国には色々な食べ方がある。名古屋名物となっている櫃まぶしは地焼きの蒲焼を包丁でたたいて櫃によそったご飯の上に乗せ、細く切ったネギや海苔、ワサビ等の薬味をそえて、暖かいだしと共に提供される。お店の方に食べ方を尋ねると、しゃもじで鰻の乗ったお櫃を四等分し茶碗によそう。一杯目は鰻とご飯をそのまま食べ、二杯目は薬味を乗せて、三杯目はだしをかけてお茶漬け風に、最後の四杯目は今までの中の好きな食べ方で召し上げって頂ければとの説明がある。「蓬莱軒」・「いば昇」・「しら河」等が有名処となるが、名古屋名物櫃まぶしとして「備長」・「うな匠」等の店が東京にも出店している。「蓬莱軒」が櫃まぶしの商標登録を持っているとの事であるが、名古屋の名物として全国に知られている。
 京都に行けば、店名を太閤秀吉がわらじを脱いだ事に由来するとされる「う雑炊」で有名な「わらじや」がある。ぶつ切りにして中骨を除いた鰻をネギや麩と共に土鍋で煮込んで食す「う鍋」と、開いて白焼きにした鰻を野菜と溶き卵で雑炊にして味わう「う雑炊」を看板にしている。京都の鰻専門店「かねよ」は、鰻丼の上に大きな京風だし巻卵を乗せて提供される「きんし丼」を目当ての客で賑わっている。
 九州福岡や佐賀県では鰻重や鰻丼では無く「せいろ蒸し」と言って、せいろにタレを絡めたご飯を盛ってその上に蒲焼と錦糸卵を乗せて蒸したてを食べる。水郷柳川には「若松屋」・「柳川屋」等この「せいろ蒸し」の有名店がある。ドジョウを使った「柳川鍋」は、この柳川の地名から名づけられている事で知られている。
 「御花」は柳川藩立花家の屋敷を旅館として営んでいて、名勝として登録されている庭や大名家の宝物館も持つ事で知られている。ここでの食事は、地元有明海の珍味を食し最後に鰻の「せいろ蒸し」で締める事になり、私のような鰻好きには嬉しい限りである。以前は東京でも赤坂の「ふきぬき」と言う鰻店が、この「せいろ蒸し」を出す事で知られていた。
 九州の鹿児島は養殖ウナギで日本一の生産量を誇っている鰻どころであり、当然鰻店も多くある。繁華街天文館はその昔天文観測をする天文館があった事が現在の地名となっているが、この天文館跡地に建つ「末よし」と言う鰻店がある。この店で食事をして、関東と比べて取り合わせの違いで所変わればと感じた事がある。鰻重には肝吸いのようなお吸い物と思っていたが、この辺では味噌汁が当たり前らしいのである。川魚料理としての「鯉こく」と「蒲焼」の取り合わせは関東でもよくあるが、「鰻重」・「鰻丼」に当たり前のように普通に味噌汁が付いてくる事が不思議に思えるのは、固定観念からだったのだろうか。

その7 【歴史の町には鰻店?】
 全国の鰻の産地や消費地では、鰻に関してのイベントを行う所も少なく無い。中仙道の宿場町浦和では毎年鰻祭りを行っており、それを目当ての観光客もある。初夏の風物詩として毎年5 月に市役所で開催され、市内の各鰻店が提供する鰻弁当を求める客で賑わう。鰻サミットも開催され、静岡県浜松市や岐阜県多治見市等、鰻ゆかりの町が参加するようである。鰻の老舗も多く、「山崎屋」「満寿家」等立派な構えの鰻店がある。埼玉県は海が無く元々沼や川が多い地域であり、川魚料理が発展したものと考えられる。
 長野県岡谷市は、寒の土用丑の日に鰻を食べようと登録し、町おこしを行っている。鰻は脂を蓄えた冬が美味しいと言う説もあり、夏のイメージのある鰻を冬にも食べようと言う考えだろうか。元々岡谷は諏訪湖や天竜川の鰻を名物として、市内には鰻店が多い。天竜川に「やな」を仕掛けて、鰻を捕まえ料理を出したのが始まりとされる「観光荘」は、いつも客で賑わっている。ちなみに店名の由来は、観光旅行等の観光ではなく以前天竜川沿いには蛍が多くこの蛍の光を見物する意味での「観光荘で」あったとの事である。
 意外に知られていないが仙台、松島も鰻店が多くあり鰻はよく食べられている。松島にある伊達家の菩提寺でもある瑞巌寺境内には、立派な鰻塚があり鰻好きとしては立ち寄って供養したい所である。
 アヤメ祭りの季節に水郷として知られる潮来や佐原を訪ねた時に鰻に関する資料展が開催されていて見学した事がある。佐原には「長谷川」「山田屋」等有名な鰻店がありアヤメ見物の客で賑わっている。
 ところで夏の土用丑の日に鰻を食べる習慣は江戸時代に平賀源内が鰻店から頼まれて考えたキャッチフレーズから始まったと言う説がある。平賀源内の旧居あとは浅草の橋場にあり今は小さな碑が立つのみであるが偶然か道沿い近くに「筑波屋」と言う鰻店がある。土用丑の日の鰻は今や夏の風物詩、一大イベントとして定着している。暑い夏を乗り切るスタミナ食として栄養豊富な鰻を食べる事は理にかなっているのかもしれない。ちなみに俳句における季語での鰻はやはり夏となっている。
 東京に限らず、歴史のある町には良い鰻屋が有る事が多い。水戸の「中川楼」・川越の「小川菊」「いちのや」・会津若松の「えびや」・三島の「桜屋」名前を上げれば切がないが、その土地の歴史文化と少なからずかかわりがあるように思えてならない。鰻登り、鰻の寝床、山の芋変じて鰻となる等、鰻にまつわることわざも多い。庶民にとって鰻は身近な物だったろうと想像がつく。
 昔はよく鰻と梅干は食べ合わせが悪く、同時に食べると命に係わるとされていた。食べ物の陰陽説に起因する等諸説はあるが、科学的根拠は無いようである。著名な医者がテレビに出演し、実際に鰻重と梅干を食べて見せて問題が無い事を実証して見せた事もある。そんな俗説が最近まで信じられていたのも、ほかならぬ鰻ならではと面白い。
 人形町にある鰻店「梅田」では、鰻に練り梅で食す梅田丼が人気であるが、そんな俗説を逆手に取ったオリジナル鰻丼である。昨今の暑い夏には、鰻重と香の物に奈良漬と共に小梅をそえるのも熱中症対策として良いような気もするが、さすがにそれをする店は無いようである。

その8 【故郷は鰻に聞いてみる?】
 近年鰻好きとしては肩身の狭いニュースが多い。シラスウナギの捕獲量が激減している事にある。ウナギを絶滅危惧種として国際取引を規制する動きもある。個体数の減少傾向が絶滅の恐れのあるレベルに達しているとの話もあり、宮崎県では親ウナギの禁漁期間を設け、産卵期の親ウナギを保護している。ウナギは完全養殖が出来ない為養殖にあたって稚魚を捕獲して育てる方法がとられている。ウナギを産卵させて卵から孵化させ養殖する事は非常に困難とされている。海で育ち川を遡上して産卵する鮭とは逆で、川や湖沼で育ち海にて産卵するウナギの習性が養殖を難しくしているようだ。
 したがって長年、毎日何十何百と鰻を割いている職人でさえ鰻の卵を見た人はいない。目利きの職人も鰻の良し悪しは分かっても、雄雌の判断などできないのである。学術的にもウナギは何処で産卵されどのように育ち日本の川を上って湖沼に生育するのかが長年の謎であり、確認解明されたのはつい数年前の事である。
 東京大学の構内においてうなぎ展があると聞いて、赤門をくぐって見学に行ったことがある。ウナギ博士として知られる、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授の集大成とも言える博覧会であった。塚本教授とその調査団は、今まで謎とされていた日本鰻の産卵場所を、西マリアナ海嶺南端部と特定する事に成功した。その方法は太平洋を鰻の稚魚を追い求め、孵化したての幼生(プレレプトケファレス)までさかのぼり、産卵したての受精卵までたどり着く気の遠くなるような作業であった。海で生まれたウナギはシラスウナギと呼ばれる稚魚に成って川を上り、成長した後川を下って海で産卵する事はよく知られている。しかし産卵やシラスウナギに成長する海での生態は、長い間謎とされていた。産卵後孵化したウナギの幼生はレプトケファルスと呼ばれ、これが海で成長し変態してシラスウナギになる。レプトケファルスは、水中に漂う姿が風にたなびくヤナギ葉のようなので「ヤナギ葉幼生」とも言われる。さらにその後これも大きな謎であった孵化したての稚魚の餌も突き止める事に成功し、日本人の長年の夢である鰻の完全養殖に向けた明るい話題も提供している。
 マルちゃんブランドで知られる東洋水産㈱の創業者である森和夫氏は鰻類の研究を行う「いらご研究所」を設立。後継者たちが氏の思いを受け継ぎ鰻の完全養殖等鰻の研究に多大な貢献をしている。このような研究により近い将来卵から育てる鰻の完全養殖が実現される事を心待ちにしている鰻好きは多い。都内に鰻屋を営む店が数件しかなくなり、「鰻重はここ数年食べて無い」江戸っ子がそんな悪夢のような話をする日が来ない事を祈るばかりである。
 愛知県のウナギ養殖会社が 2013 年に、フイリッピン産シラスを池入しアンギラ・ビカーラ種の養殖販売に目途を付けた。現在中国ではヨーロッパ産のアンギラ種、アメリカ産のロストダラー種、東南アジア産のビカーラ種とマルモダラー種が出荷されている。日本産ジャポニカ種以外の鰻も既に私たちの口に入っているのかも知れない。
 シラスウナギの捕獲量が減って来たのは、資源の枯渇に加え海域の海水温変化も起因しているのではないか。産卵場所が海水温の変化や気象条件等により移動していれば、黒潮に乗って移動する鰻の稚魚が日本にたどりつかなくなるのではないか。かつて北海道で沢山漁獲されたニシンのように…。あれこれ考えながら食べる鰻重はいつもより箸の運びが遅くなる。

その9 【タレは鰻店の宝物?】
 天丼・かつ丼ときても鰻は鰻丼では無く鰻重のイメージが強いのは、蒲焼の長さが丸い丼よりも長方形のお重に合うからだろうか。鰻好きの中には、鰻もお重では無く鰻丼が良いと器にこだわる人もいる。落語家の柳家小さんは、湯島にある鰻店「小福」に自分専用の丼を預けていたと言う話を聞いた事がある。
 鰻丼の起源については、江戸時代「宮川政運」著の物事の起源を表した書に今の人形町あたりの芝居小屋の主人「大久保今助」が考案したと言う説がある。蒲焼とご飯にタレがしみ込んだ味が、芝居町を中心に人気となり近隣の大野屋が元祖鰻飯として売り出したとの記述もある。鰻店によっては値段の安い方は丼で提供し高価になると鰻重になる店もある。実際に鰻の値段はその大きさの違いによる物である。
 今のように蒲焼にする鰻を割いて開く技法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。現在はどの鰻店でも鰻を割く包丁は専用のサキ包丁が用いられている。その鰻を割く為の包丁は地方により独特の形に工夫され、江戸サキ、大阪サキ、京サキ、名古屋サキ等とそれぞれ異なるようである。
 歴史ある鰻店で最も大切にされているのは、その店に代々伝わるタレである。秘伝のタレと言う事になるのであるが意外に配合自体はシンプルな物が多い。創業 200 年を超す都内屈指の老舗「神田川本店」の特徴である辛口のタレは、醤油と味醂のみを配合しそれ以外調味料や糖類は一切使わないそうである。「尾花」も醤油はまろやかな香りが特徴の小豆島のマルキン醤油とこだわるが配合は、醤油と味醂のみとの事であり他の老舗については「野田岩」等もしかりである。企業秘密で実は隠し味があるのではと邪念も抱くが、実は長年蒲焼を焼いて来たが故のうま味成分が蓄積される事に秘密があるらしい。何度もタレ付けされて焼かれた蒲焼は、メイラード反応を起こしてコクと深みを増し同時に鰻からのうま味成分が加わる。それらを含んだタレは独特の風味を持つ事になり、歴史によって作られるその店独特のタレとなる。
 老舗のタレは創業以来絶やさず継ぎ足される事により、何万匹か数えきれない鰻のうま味を備えている事になる。関東大震災の時にタレ壺を抱えて火の中を逃げた。戦時中に空襲を受け、戦火の中から命がけでタレだけを運び出して守った等の話が残る老舗は多い。そんなタレをつけて焼かれる蒲焼は、香りを出す為にも炭火が一番と言われている。使われる炭は最上級の紀州備長炭を用いて火を起こし、炭から10 数㎝離して焼くのが良いとされている。
 多くの鰻店は素材としての鰻へのこだわりを持っている。もちろん入手しにくい高価な天然物もあるが、養殖でも育て方にこだわったブランド鰻がある。「うなぎ坂東太郎」は忠平㈱が手掛ける鰻のブランドで、浅草駒形の「前川」始め各鰻店では他の養殖鰻とは区別された蒲焼とされている。
 焼津の㈱供水で養殖される「大井川・供(きょう)水(すい)うなぎ」も幻の鰻とされ評判を得ている。これらは餌にこだわり、環境を整えストレスを掛けないよう時間を掛けて育てる事により、天然に近い養殖鰻を提供している。
 鰻の蒲焼と言う料理は100 年前から変わらず、これからの100 年もほとんど変わらないだろと言う人がいる。しかしそれに係る人々のたゆまない創意工夫は、江戸の昔から今日に至り今後100 年もきっと続けられていくと確信している。

その10【鰻店はなんと言っても江戸東京?】
 江戸前と言う言葉はそもそも鰻を指していたそうである。嘉永 5 年(1856 年)に江戸前大蒲焼番付表と言う物が出されており江戸に有った 221 軒もの鰻店が記載されている。番付表を見ると知っている店の名前を目にする事も出来る。世話役として山谷重箱、番付の上位には浅草「前川」明神下「神田川」等現在も営業を続け繁盛している鰻店が登載されているからである。推測ではあるが江戸には 400 軒を超える鰻店があったと考えられており、それに蒲焼売りとされる屋台の露天商等を加えると800軒位の鰻屋があったのではないかとの説もある。人口比からするとその数は極めて多く、しかもその殆どが鰻料理以外は扱わない専門店であった事も驚きである。その数字を少々割り引いても如何に江戸っ子が鰻好きであったかが窺い知れる。
 当時の江戸は隅田川に代表される大きな川だけでなく掘割や水路が張り巡らされ沼や池も多く点在し鰻にとっては格好のすみかとなっていた。浅草蔵前周辺は幕府の米蔵が並んで建ち船を利用して運び込まれる米俵から零れ落ちる米を餌にした肥えた鰻が捕れたと言われている。
 江戸の商業の中心地とされた日本橋界隈や職人が多かった神田近辺、随一の繁華街であった浅草には今でも有名な鰻店が多くある事で知られている。現在の日本橋界隈の有名店は小網町の「喜代川」室町の「いずもや」「伊勢定」「大江戸」に加え「高嶋屋」「室町宮川」「小伝馬町宮川」。元全日本代表でサッカー解説の松木安太郎の実家として知られる「近三」もその一件である。神田では神田明神下「神田川」が粋な黒塀の風格のある店構えで迎えてくれる。北辰一刀流千葉周作道場があったとされるお玉が池跡に店のある「ふな亀」。神田駅近くの「菊川」外神田の「久保田」湯島天神下「小福」等がある。浅草も創業 100 年を超えるような老舗がそろっている。駒形の「前川」雷門の「やっこ」新仲見世「つるや」その他にも「色川」「小柳」「初小川」「川松」等名店が味を競っている。
 また向島を始め神楽坂、赤坂等、花柳界のある地には必ず鰻の老舗があるのも面白い。「向島宮川」神楽坂の「志満金」赤坂の「ふきぬき」等が評判の店でもある。江戸川沿い帝釈天、寅さんで知られる葛飾柴又にも川魚料理、鰻の老舗は多い。「川千家」「川甚」等は創業100 年を超える老舗として評判の店である。映画「男はつらいよ」の第一作でクライマックスとなる寅次郎の妹さくらと博の結婚披露宴シーンは川甚で撮影された事は知られている。山の手では江戸川橋の「石ばし」「はし本」等の老舗が繁盛している。
 麻布にある「野田岩」は江戸期創業の老舗である。当主「金本謙次郎」は長年続けている仕事も単なる作業にしてはならないと常に追求心を持ち職人技を貫いている。平成19年に鰻職人として初の現代の名工に選ばれている。開いて串に刺した鰻の皮と身の間の余分な脂を素焼きの段階で焼いて落す。表面を団扇であおいで冷ましながら内を焼く要領である。たれを付けて焼く作業は 4回繰り返し炭を置く位置、団扇をあおぐ速度等を微妙に調節しながら焼き色を出す事に全力を注ぐ。表面をこがさずにぎりぎりの処で黄金色に焼き上げる、まさに職人技である。ところで野田岩本店に掛かる看板には「狐うなぎ」とある。「狐うなぎ」とは、かつて野田岩で提供されていた利根川上流で捕れる狐のように口が細い事からそう呼ばれた天然鰻との話である。

その11【鰻は栄養の宝庫?】
 鹿児島の開聞岳を望む池田湖に生息する大ウナギを見に行ったことがある。最大で体長約2m 体重 20kg にもなりその太さと大きさには驚くがウナギ目ウナギ科で通常目にするウナギとは同属の別種との事である。南西諸島あたりでは捕獲して食べられる事もあるようだが味は今一つと言われている。水槽にいる大ウナギを見て一匹で何人前の鰻重が出来るのかと考えるのは不謹慎と言う物であろうか。
 浜松の名物土産に「夜のお菓子」のキャッチフレーズで知られる「うなぎパイ」がある。蒲焼をイメージさせる鰻エキスが入った細長いパイである。夜のお菓子とは意味深であるが製造元に言わせると夕食後の一家団らんに食べてほしいそんな意味だと言う。しかし精が付くウナギのイメージから勘違いして買って帰られる客も多いとの弁であり案外狙いはそのあたりかもしれない。
 日本橋の老舗楊枝専門店「さるや」ではウナギに似せた楊枝を販売している。どちらも細長い楊枝とウナギをイメージさせた江戸っ子のシャレと思われるが、鰻好きとしては是非小道具として持ち歩きたい物である。
 鰻の生産量も減り価格も高騰して来ている昨今は鰻を余すところなく食べようと言う考えも再燃して来ている。以前から鰻を割く時に出る頭の部分を串に刺して焼いた「かぶと焼き」やヒレなどの端切れの部分を串に刺した「倶利伽羅焼き」等は庶民の酒の肴とされてきた。ちなみに「倶利伽羅焼き」は串に刺された鰻の端切れが不動明王の持つ「倶利伽羅剣」に例えられての事である。肝臓や胃、浮き袋等を丁寧に分けて串に刺され串焼きを提供する鰻店もある。中野にある「川二郎」では鰻を割く時に落される頭の部分を割いて中骨を取り除き身の部分を串刺しにして提供している。人形町の「心天」は鰻の皮を串巻とし、背びれをヒレ串、レバー、鰻のつくね等の串焼きを提供している。そうした店は骨も素揚げにしておつまみとしてサービスしたりしている。
 そもそも栄養豊富な鰻は必須アミノ酸のリジン、メチオニン、スレオニン、トリプトファンの他に DHA、EPA 等の必須脂肪酸を多く含んでいる。加えてビタミンA、ビタミン E にコラーゲン、骨まで食べればカルシウムの補強ともなる。余すところなく食べる事は栄養学的にも大切なように思える。
 ところで鰻を刺身のように生で食べる事が無いのは実は鰻の血液には有毒成分が含まれているからである。その事を知らない人は案外多く話を聞いて食べて大丈夫かと驚く人もいる。有毒成分「イクチオヘモトキシン」は 60 度で 5 分ほど加熱すれば毒性を失うので通常の鰻料理では全く心配は無いわけである。
 価格高騰により若者の鰻離れが気になる処であり鰻は年配者の好む料理と言うイメージがあるかと思うが実はそうでも無いらしい。夏の土曜日の昼に神田明神近くへ来たので鰻店「神田川」へ今から行きたいと電話をすると椅子席の相部屋があいておりそこへ通された。私たちの他に 2 組がいたがいずれも若いカップルで鰻店での食事を楽しんでいる。二人でネット検索し次のデートは鰻店でと言う事で訪れたようである。若者のデートに利用されている場を見て鰻が若い人たちにも支持されている事を知り少し嬉しく思えた。

その12【天然鰻は腕で仕上げる?】
 関東では下りの青に代表される天然鰻はいくら養殖の技術が向上したと言っても及ぶ物ではない。しかし天然の上物を蒲焼に仕上げるには大変な技術が必要となる。鰻店は数多くあるがその技術を持つ店と職人は多くは無い。
 1メートル近くもある天然鰻を名物大串として提供するのが南千住の「尾花」である。以前は天然鰻を売りにして天然鰻の大きな看板を掲げて日によっては提供する鰻の7割方が天然であった事もあったと聞く。天然鰻と染め抜かれた暖簾をかき分けて店に入ると、店内には釣り針ご用心の張り紙があり、土産に蒲焼を持ち帰る紙袋にも天然鰻の印刷がされていた。残念ながら今は天然の文字が無くなってしまい、釣り針に注意する事も無くなってしまったようである。この店の蒲焼を別の鰻店の職人は、串に刺した鰻をあの口に入れるととろけるように軟らかく焼き上げる技術に感心をしていた。鰻を焼いた経験のある人であれば、そう思っても不思議ではないと思われる。
 名物尾花の大串はどのように作られるのであろうか。目打をした鰻を背開きにし、キモ、中骨、向こう骨、背ビレ、腹ビレを取り除く。さらに針を打って固定し削るように、小骨を除き頭と尾を落したのち等分に切る。左から2 〜 3cm の間隔で一か所に 2 本の串を打つが、串は平行よりやや先すぼみの八の字とする。この時の串は肉が盛り上がるように、身を縮めて厚みを増した鰻の中央に打つ事が大切である。素焼きは強火の炭で、皮から焼き手返しを何遍も繰り返し火を良く通す。頃合いとしては皮に米粒大の細かな焼き目が付いて来るまで焼き上げる。焼きあがった鰻はさっと水洗いをしてから、大きさにもよるが 40 分程蒸しあげる。蒸しあがった時の鰻の身は見た目が赤みをおびている。蒸しあがったらタレに浸し今度は身の方から弱火で焼く。タレが固まらないように小まめに返し、 4 回たれを付けて 5 分程で焼き上げる。焼く際は素焼き蒲焼とも手返し百遍と言われるように、ひんぱんにひっくり返しむらなく焼き上げる事が肝心である。口にした瞬間に崩れるほど柔らかく仕上げられた鰻は、下町特有の辛口のタレのかもし出す香りと相まって絶妙の味となる。
天然鰻の産地には以前関東では利根川下流のほか印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦等があったが水質汚染などもあり激減しているようである。夏が旬のイメージがある鰻だが、天然物は夏場に餌を食べて栄養を蓄えるので秋から冬にかけて捕れる物が最も美味しいと言われている。全国的には九州柳川、四国四万十川、北陸の三方五胡、山陰の宍道湖等が知られている。
 鰻の蒲焼は俗に「くし打ち 3 年、裂き5 年、焼きは一生」と言われている。鰻職人にとって焼きは、一生の修業と言う事になりその腕の見せ処となる。江戸末期創業の名店「竹葉亭」にはかつて焼政と呼ばれた名職人浅野政吉がいて、「竹葉亭」の名を高めたと聞いた事がある。木挽町の本店は、大正期に建てられた茶室と座敷を持ち風情あるたたずまいで客を迎えている。江戸前の鰻店の系統では大和田を名乗る店も多い。本家とされるのは尾張町大和田であるが、そこで修業し暖簾分けされて店を出しまたその暖簾分けされた店で修業し大和田を名乗る。大和田を名乗る店は新橋の「大和田」柏の「大和田」台東区竜泉の「大和田」の他多くある。

(小堺化学工業株式会社 青木 知廣 著)