2023.01~2023.12 ブログ 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

2019年から「絆通信」に毎月コラムを配信。
2023年は江戸のヘアスタイル①~⑥・ 江戸の銭湯①~⑥です。

2023.01 江戸のヘアスタイル①【男性の標準ヘアスタイル・月代
2023.02 江戸のヘアスタイル②【様々な髷の登場
2023.03 江戸のヘアスタイル③【女性の間で流行した島田髷
2023.04 江戸のヘアスタイル④【きらびやかな髪を飾る装飾品
2023.05 江戸のヘアスタイル⑤【髪結床の賑わい
2023.06 江戸のヘアスタイル⑥【女髪結の登場
2023.07 江戸の銭湯①【銭湯の数が多かった理由
2023.08 江戸の銭湯②【格安だった料金
2023.09 江戸の銭湯③【銭湯の営業時間
2023.10 江戸の銭湯④【銭湯での有料・無料サービス
2023.11 江戸の銭湯⑤【銭湯の二階の座敷は休憩所だった
2023.12 江戸の銭湯⑥【休憩所は町の社交場の顔も持っていた

2023.01 江戸のヘアスタイル①【男性の標準ヘアスタイル・月代】

前回までは、江戸っ子の食文化を取り上げてきましたが、今回からは江戸のファッション文化にまつわる事柄を連載していきます。まずは6回にわたって、江戸のヘアスタイルにまつわる話を御紹介します。

江戸時代の成人男性の髪型と言えば、何と言っても月代(さかやき)です。月代とは、額から頭の中央にかけて半月状に髪を剃り落とすことでした。浪人や医師などを除き、当時は月代を剃るのが通例でしたが、江戸時代のはじめは違いました。

江戸初期に流行したのは茶筅髷というものです。頭の後方で髪をまとめ、その根から元結で3~4寸巻き、先端を房状にした髪型です。茶筅の形に似ていたことで茶筅髷と呼ばれました。

その後、月代の風習が広まりますが、剃り残した髪は結い、元結をもって髷としました。いわゆる「丁髷」です。

医師や学者などは、月代を剃らず総髪にするのが定番でした。総髪とは全体の髪を伸ばし、これを束ねて結ったものです。しかし、月代は成人男子の嗜みとされたため、幕末を除いて、総髪は無頼漢のようにみられたようです。

 

2023.02 江戸のヘアスタイル②【様々な髷の登場】

江戸中期に入ると、剃り残した髪で結われた髷の形が様々に工夫されるようになります。八代将軍徳川吉宗の時代にあたる享保期(1716~36)には、人形遣いの辰松八郎兵衛という人がはじめた結び方とされる「辰松風」が登場します。髷の根の部分を高く付き上げ、先端が月代に突き刺さるようにした髪型でした。

次の元文期(1736~41)には、辰松風の髷の折りの部分を緩やかにした「文金風」が流行ります。名称の由来は、金貨にありました。

元文元年(1736)に幕府が発行した元文小判・一分金は文金と呼ばれましたが、同じ年にこの髪型がはじまったことで、文金風と呼ばれたのです。

そして明和・安永期(1764~81)には、髷を高くした上で七分を前に三分を後ろに分けた「本多髷」が流行する。譜代大名の本多家の家中から広まった髪型でした。

本多髷の流行が収まると、今度は時代劇でよくみるような「銀杏髷」が流行しました。髷の先を銀杏の葉のように広げたことが名称の由来です。

 

2023.03 江戸のヘアスタイル③【女性の間で流行した島田髷】

江戸時代に入る前、成人女性の髪型は垂髪(すいはつ)でした。名称の通り、髪を垂らすのが普通でした。

しかし、江戸時代に入ると、男性の髪型の影響も受けて結髪へ移行していきます。特に庶民の女性は動きやすさを考慮して、髪を束ねて結ぶようになりました。

江戸の町で最初に流行したのは「唐輪髷」(からわまげ)です。頭頂で髪の輪を複数作って、その根を余った髪で巻き止める髪型でした。

唐輪髷を簡略化したのが「兵庫髷」です。摂津国兵庫の遊女が結い始めたことに因んで、兵庫髷と呼ばれました。

次に流行ったのは「島田髷」でした。前髪、左右側面の髪である鬢(びん)、後方の髪である髱(たぼ)を張り出した上で、髷を折り返して中程で締めたものです。東海道島田宿の遊女がはじめたとされていますが、主に未婚女性の結髪として幕末まで続いた髪型でした。

2023.04 江戸のヘアスタイル④きらびやかな髪を飾る装飾品

女性のヘアスタイルは実に多種多様でした。時代が下るにつれて、唐輪髷、兵庫髷、島田髷と手の込んだ髪型になっていきますが、島田髷と並んで人気だったのが「勝山髷」でした。

この髪型のモデルは、吉原の遊女・勝山でした。後方で束ねた髪を元結で括り、先を細めにした上で、前に曲げ輪を作った髪型です。

勝山髷から発展したのが、「丸髷」です。島田髷とは違って、主に既婚女性の髪型でしたが、髷の大きさや厚みで年齢差が出ているといいます。若い女性ほど大きく、年配の女性ほど小さかったようです。

なお、女性の場合は髪を飾る櫛・笄・簪などの装飾品の変化も見逃せません。

江戸初期、櫛や笄は黄楊や鯨髭で作られていましたが、その後、鼈甲や鹿の角で作られたものが登場します。享保期にはビードロの笄が流行しました。装飾品と組み合わせることで、髪型のバリエーションが際立ったのです。

2023.05 江戸のヘアスタイル⑤【髪結床の賑わい】

髪型を維持するには、手入れが必要なのは今も江戸も変わりはありません。懐の寂しい町人も現代の理容室・美容院にあたる髪結床に通うことが不可欠でした。

髪結床には、橋のたもとや河岸地、広小路、町境などを利用して床場を構えた「出床」(でどこ)と、家を借りて営業する「内床」(うちどこ)の2種類がありました。

髪結の仕事場は固定した髪結床とは限りませんでした。道具一式を収めた道具箱を持って、お得意先を廻ることも珍しくありません。

髪結の料金は時代によってまちまちですが、20数文でした。かけ蕎麦1杯16文より少し高いぐらいの価格です。

江戸中期以降、髪結床の設備はかなり整えられ、町の社交場としての顔を持つようになります。順番を待つ客のため囲碁や将棋盤が置かれ、待ち時間を潰してもらいました。絵草紙を見せるサービスまでありましたが、現在に喩えれば待合室で雑誌を読むようなものでしょう。

2023.06 江戸のヘアスタイル⑥【女髪結の登場】

当時は、男性と比較すると、女性は自分で髪を結うものとされていたといいます。男性の場合、総髪ならばともかく、月代を剃るとなると、鏡を見ながらであっても、なかなか難しかったことでしょう。そのため、現代の理髪師にあたる「髪結」という職業が生まれることになりました。

女性の場合は髪を切った上で、髪を束ねたり結ったりしたわけですが、髪型が自分の手では負えないレベルになると、女性専門の髪結に頼むしかなくなります。こうして、「女髪結」という職業も生まれます。

女髪結は既婚で子持ちの女性が多かったようです。髪結床のような床場は持たず、道具箱を持って顧客のもとを訪れ、注文通りの髪型に整えました。料金は1回あたり200文で割高でしたが、需要は大きかったようです。それだけ、女性の髪型が精巧なものになっていたからです。

嘉永6年(1853)の町奉行所の調査によれば、江戸市中に1400人を越える女髪結がいました。女性の職業として定着したことが分かります。

2023.07 江戸の銭湯①【銭湯の数が多かった理由】

江戸では、町人が自分の家に風呂を持つことは稀でした。町人が自宅に風呂を造らなかった理由としては、火事に対する恐れ、燃料の薪の価格の高さ、そして水が不自由なことが挙げられます。

要するに、風呂を炊く手間や費用を考えれば、銭湯に出かけた方が安上がりで好都合でした。そのため、自宅に風呂を造らなかったというわけです。

江戸の町に限ることではありませんが、この時代は銭湯の数がたいへん多かったのが特徴でした。江戸の銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591)の夏に、伊勢与一という者が銭瓶橋のほとりで、永楽銭1文の料金で入浴させたことにはじまると伝えられます。

その後、江戸が巨大都市化するに伴い、銭湯の数は増加していきます。ついには、町ごとに銭湯があるぐらいの数となりました。文化11年(1814)には、その数は600軒余にも達します。幕末の頃になると、江戸の中心部では1町あたり銭湯が2軒ずつあるのが珍しくなくなります。

2023.08 江戸の銭湯②【格安だった料金】

江戸で銭湯の数が多かったのは、利用者の立場から言うと、手間や費用を考えれば銭湯に入った方が安上がりだったからですが、実際のところ料金は格安と言ってよい価格でした。江戸中期にあたる明和年間(1764~72)までは、大人が6文。子供が4文。寛政六年(1794)からは大人が10文。子供が6文となりますが、他の物価に比べると格安だったことに変わりはありませんでした。

かけ蕎麦1杯が16文ですから、その半額ほどに過ぎません。その格安さは際立っていました。

言い換えると、格安な料金であったからこそ、懐の寂しい江戸っ子でも毎日のように銭湯に通えました。それだけの頻度で利用されたからこそ、格安料金が可能だったとも言えるでしょう。

毎日のように通った理由としては、気候事情も見逃せません。江戸は風が強いため埃をかぶりやすく、毎日風呂に入ることを習慣とせざるを得なかったというわけです。

2023.09 江戸の銭湯③ 【銭湯の営業時間】

江戸っ子にとっては、銭湯に出かけることは毎日の生活の一部となっていましたが、その営業時間は現代と比べても長いものでした。

寛文2年(1662)に、営業時間は日の出から日の入りまでと定められました。つまり、明六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までというわけですが、実際は日没後も、湯が冷めない間は営業を続けているのが普通でした。およそ、午後八時ぐらいまでは営業していたようです。

時間帯により、客層は違っていました。朝は仕事に出かける前の者、あるいは隠居身分の者が銭湯にやって来ました。午後は手習いから戻った子供や仕事が終った者たちがやって来ました。そのため、日の出から日没まで営業していても、銭湯には人の出入りが絶えませんでした。

2023.10 江戸の銭湯④ 【銭湯での有料・無料サービス】

銭湯では、様々なサービスが提供されていました。有料のものもあれば、無料のものもあります。

受付にあたる番台では、体を擦る糠袋や体をぬぐう手拭が有料でレンタルされました。体の汚れを落とすための洗い粉も売られています。現代に言えば石鹸に当たるでしょう。楊枝や歯磨きも売っていました。

洗い場には備え付けの櫛や爪切りなどがあり、共用されました。ただし、持ち去られないように、櫛には紐が付いていました。

桶については、無料で使用できる共用の桶と有料の桶があります。有料の桶は留桶(とめおけ)と称されました。自分専用のものとして、銭湯でキープしておくわけです。
入浴料は格安でしたが、懐に余裕のある者は留桶のほか、三助と呼ばれた湯屋の奉公人を雇って体を糠袋で擦らせています。風呂焚きはもちろん、湯屋の雑用一切は三助の仕事でした。

2023.11 江戸の銭湯⑤【銭湯の二階の座敷は休憩所だった】

風呂から上がると、男性は銭湯の2階に設けられた専用の休憩所でくつろぐことが多かったようです。銭湯には女性も入っていていましたが、専用の休憩所は設けられませんでした。男性の数が女性よりも圧倒的に多かった江戸の町の特徴が、こんなところにも表れています。

2階に設けられた男性客用の休憩所ですが、無料で利用できたわけではありません。入浴料と同じぐらいの利用料を払う規定でした。

休憩所の使用料は8文でしたが、菓子も1つ8文で売られています。お菓子だけでなく、御茶付きでしょう。入浴料は安く設定されていましたが、2階でお金を落とさせることで、銭湯は経営の安定を目指したのです。

銭湯にとって2階の休憩所の利用客は上客でしたが、入浴した後の客だけ利用したのではありません。利用料を払えば、入浴しなくても休憩所は利用できました。いわば町の社交場となっていたのです。

2023.12 江戸の銭湯⑥【休憩所は町の社交場の顔も持っていた】

男性に限られましたが、銭湯の2階に設けられた専用の休憩所で、町人たちは囲碁や将棋を楽しみながら、あるいは備え付けの絵草紙などを読みながら、湯上りのひとときを過ごしました。

休憩所は町の社交場でしたから、壁には商品の広告や芝居の番付、寄席や見世物といったイベントのチラシなどが貼られているのが日常的な光景でした。社交場であることに目を付け、広告やイベントのチラシが貼られたのです。

町の銭湯を利用したのは、町人とは限りません。下級武士は自宅に風呂を設ける余裕などはないため、銭湯に通わざるを得ませんでした。その際には、二階の休憩所も利用しています。町人の場合と同じく、必ずしも入浴した後に利用したわけではありません。町の社交場となっていたことから、市井の情報を知るには格好の場所でした。入浴せずに、二階に直行する場合も多かったようです。

 

※安藤優一郎氏の「江戸の歳時記」Ⅰ~Ⅲ (2015~2018年)を冊子として刊行しております。

入手をご希望される方へ配布しておりますので、弊社広報担当までお申し付けください。

連絡先:03-3662-4701 広報担当 小堺ひとみ