2022.01~2022.12 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

2019年から「絆通信」に毎月コラムを配信。
2022年は江戸の果物①~⑥・ 江戸の菓子①~⑥です。

2022.01 江戸の果物①【栽培が盛んだった果物とは】
2022.02 江戸の果物②【出荷制限が掛けられた果物】
2022.03 江戸の果物③【江戸に出荷された紀州蜜柑】
2022.04 江戸の果物④【豪商紀伊国屋文左衛門は蜜柑を扱った商人ではなかった】
2022.05 江戸の果物⑤【甲州葡萄の登場】
2022.06 江戸の果物⑥【江戸でも栽培された葡萄と梨】
2022.07 江戸の菓子①【長命寺桜餅の誕生】
2022.08 江戸の菓子②【和菓子の日となった嘉祥の日】
2022.09 江戸の菓子③【亥の子餅が配られた玄猪の儀式】
2022.10 江戸の菓子④【将軍徳川吉宗による砂糖黍栽培の奨励】
2022.11 江戸の菓子⑤【薩摩藩による黒砂糖の増産】
2022.12 江戸の菓子⑥【高松藩が開発した和三盆】

2022.01 江戸の果物①【栽培が盛んだった果物とは】

前回までは、江戸っ子が食卓にのぼる野菜を近郊農村に頼っていた様子を取り上げましたが、そうした事情は果物にもあてはまります。近郊農村では江戸向けの果物作りも盛んでしたが、今回からは6回にわたって、江戸の果物にまつわる話を御紹介します。

日本原産の果物としては梨・栗・柿などが挙げられますが、奈良時代に入ると、現在のものとは違うのですが、桃・蜜柑・金柑などが登場します。ただし、当時は貴族社会における贈答用の品でした。梨や柿などは別として、庶民には縁遠い高級品でした。

室町時代には、葡萄・西瓜などの栽培もはじまります。江戸時代に入ると、栽培が盛んだった果物も分かります。8代将軍吉宗の時代に作成された『諸国産物帳』によれば、柿、梨、桃、梅、苺の順で果物の栽培が盛んでした。

その後、宝暦4年(1754)に刊行された『日本山海名物図会』には、大和御所柿や紀州蜜柑がその地域の特産品として挙げられています。奈良では柿、和歌山では蜜柑が特産品だったのです。

2022.02 江戸の果物②【出荷制限が掛けられた果物】

江戸では初物がたいへんな人気を博しましたが、それは果物についてもあてはまります。よって、生産者の農民側には早めに出荷する傾向がみられましたが、早く成長させるためには、高価な肥料を投入するなどの投資も厭いませんでした。

となれば、その分価格に反映されます。いきおい値段は高くなりますが、それでも争うように買い求められたのが実態でした。
しかし、価格の高騰を嫌う町奉行所は、早くも貞享3年(1686)に出荷制限の法令を発令します。ビワは5月、りんごは7月、梨は8月より出荷を許可するなどと定めましたが、実際は守られませんでした。その証拠に、同じ法令が繰り返し出されています。

なお、『守貞謾稿』という江戸の生活風俗書によりますと、もともと果物は菓子と呼ばれましたが、江戸時代に入って呼び名が変わったそうです。京都・大坂では果物、江戸では蒸菓子などとの比較で水菓子と呼ばれるようになりました。

2022.03 江戸の果物③【江戸に出荷された紀州蜜柑】

今回は江戸の果物の代表格ともいうべき蜜柑をみていきましょう。温暖な地域の特産物であることは今も同じですが、江戸っ子にとり最も身近な蜜柑の産地は紀州でした。

農学者として知られた大蔵永常が著した『広益国産考』によれば、紀州から三都に出荷された蜜柑は年間で150万籠にも達したといいます。1籠に何個入っていたかは分かりませんが、ゆうに1000万個は越えたでしょう。

紀州蜜柑は、戦国時代にあたる天正年間(1573~93)に肥後国の八代から紀伊国有田郡に蜜柑が移植されたのがはじまりです。土地柄にも合って美味な蜜柑が出来たことから、紀州全体に生産が広まります。

江戸初期、紀州の国主は浅野家でしたが、大坂夏の陣の後に広島へ転封されると、徳川家康の10男頼宣が新国主となります。紀州徳川家の誕生です。初代紀州藩主となった頼宣は有田産の蜜柑を気に入り、その増産を奨励したため、紀州蜜柑の生産は飛躍的に高まります。

江戸をはじめ三都に大量に出荷されたことで、蜜柑の価格は自然と安くなりました。こうして、上流階級の贈答品だった高級果物の蜜柑は大衆の果物に変身するのです。

2022.04 江戸の果物④【豪商紀伊国屋文左衛門は蜜柑を扱った商人ではなかった】

紀州から海上輸送された蜜柑は、まず日本橋四日市町の広小路に水揚げされます。そこで開かれていた蜜柑市を通じて果物を扱う商人の手に渡り、食卓に届く流れでした。紀州蜜柑は他の蜜柑に比べると皮が厚く、美味という評判を得たことも相まって、江戸でトップシェアの座を獲得します。

紀州蜜柑といえば、豪商紀伊国屋文左衛門の伝説が有名です。嵐の中を船で紀州蜜柑を大量に運び、高値で売り捌いて大儲けした話ですが、そのエピソードを証明する確かな史料は残されていません。

実際は蜜柑と関係なく材木商人として財をなした人物でしたが、紀伊国屋という屋号に注目して文左衛門と紀州蜜柑を結び付けた小説が創作されたことで、その伝説が生まれたのが真実のようです。

明治に入ると中国から入ってきた温州蜜柑の栽培が広まったことで、江戸改め東京での紀州蜜柑のシェアは低下します。やがて、トップシェアの座は温州蜜柑に奪われることになります。

2022.05 江戸の果物⑤【甲州葡萄の登場】

蜜柑の次は葡萄を取り上げます。室町時代から日本で栽培されはじめた葡萄は、江戸時代に入ると甲斐国なかでも勝沼が最大産地として台頭します。元禄8年(1695)刊行の『本朝食鑑』中の葡萄の項には、産地としては甲州が最大で、駿河がこれに次ぐ。ともに、江戸に送られたという記述があります。

それだけ、蜜柑と並んで江戸では人気のあった果物でした。そして甲州から大量に出荷されたことで価格は安くなり、高級な果物から大衆の果物に変身していきます。江戸での大需要を受けて増産された結果とも言えるでしょう。

甲州の葡萄は、勝沼宿の問屋から神田の青物市場へと直送されました。神田青物市場は江戸城に新鮮な野菜を納める義務を幕府から課されていましたが、葡萄の献上も義務付けられます。

つまり、献上分の以外の葡萄を余剰分として販売することが許された格好でした。その後、水菓子問屋を介して市中に販売されていくのです。

2022.06 江戸の果物⑥【江戸でも栽培された葡萄と梨】

果物は近郊農村や諸国から供給されただけではありません。江戸の町では、自宅の庭で果物を栽培する事例が珍しくありませんでした。

例えば、『南総里見八犬伝』などの作品で知られる戯作家の曲亭(滝澤)馬琴は、屋敷の庭で柿・桃・梨そして葡萄などの果物を栽培しています。自家用のみならず、これを売って現金収入を得ていた様子も日記から分かります。

なかでも、葡萄の木はかなり大きかったのですが、その分目立ちやすく盗難にも遭っています。柘榴も度々盗まれました。

なお、馬琴が自宅の庭で作っていた梨については、武蔵国橘樹郡宿河原付近(現在の稲城市域や川崎市域)で栽培された「多摩川梨」、下総国葛飾郡八幡(現千葉県市川市)で栽培された「八幡梨」が江戸っ子の間で人気がありました。

柿の場合は、「立石柿」と呼ばれた現在の長野県飯田地域の柿の人気が高かったようです。将軍に献上された柿であったことも高い人気を誇った理由でしょう。

2022.07 江戸の菓子①【長命寺桜餅の誕生】

今回からは6回にわたって、江戸の菓子にまつわる話を御紹介します。いつの世も甘いお菓子は人気がありますが、江戸時代は多種多様な菓子が次々と誕生した時代でもありました。花見文化から生まれた桜餅はその一つです。

春になると隅田川堤(墨堤)に咲き乱れる桜は、江戸も今も春の盛りを告げる光景です。花見のため隅田川堤に人々が押し寄せる光景も同じですが、そんな桜の季節の菓子として、江戸時代以来今も高い人気を誇るのが「長命寺桜餅」でした。隅田川沿いには、桜餅の起原となった長命寺が今も立っています。

桜が散ると、大量の落ち葉が生まれますが、それに目を付けたのが長命寺の門番でした。塩漬けした落ち葉で餡入りの餅を挟み販売したのです。これが「長命寺桜餅」のはじまりですが、ちょうど桜の花見の時期に売り出されたことで、たいへんな人気を呼びました。

曲亭馬琴の『兎園小説』によれば、文政7年(1825)には桜餅製造のため塩漬けされた桜の葉が77万5000枚にも及んだといいます。当時は餅1つに桜の葉が2枚使われたため、年間38万7500個の桜餅が製造された計算でした。桜餅の人気ぶりが良く分かる数字です。

2022.08 江戸の菓子②【和菓子の日となった嘉祥の日】

江戸時代は、菓子が主役の儀式が江戸城で毎年二度執り行われました。嘉祥の儀式と玄猪の儀式ですが、6月16日に執り行われた嘉祥の儀式からみていきましょう。この日、江戸在府中の諸大名は江戸城に登城することが義務付けられていました。

嘉祥の儀式とは疫気を払うため16個のお菓子を神に供え、その後神棚から下ろして食する行事のことです。平安時代にはじまる宮中の行事でしたが、幕府は将軍から下賜された菓子を食べれば疫気が払えるとして、諸大名を対象に執り行う江戸城の年中行事に組み入れてしまいます。

当日、諸大名は江戸城に登城し、将軍から菓子を下賜されました。会場は城内で最も広い空間・大広間です。将軍手づから諸大名に渡すのが原則で、2代将軍秀忠の頃までは大名一人一人に手渡しました。そのため、以後2~3日ほど将軍は肩が痛かったと伝えられます。

将軍が下賜した菓子は饅頭、羊羹などで、総数2万個以上にも達しました。そうした由緒を踏まえ、現在では毎年6月16日が全国和菓子協会により和菓子の日に設定されています。

2022.09 江戸の菓子③【亥の子餅が配られた玄猪の儀式】

次に玄猪の儀式をみていきましょう。毎年、亥の月にあたる十月の最初の亥の日は玄猪の日とされ、亥の子に見立てた餅(亥の子餅)を亥の月、亥の日、亥の刻(午後十時)に食すると、無病息災がもたらされると信じられていました。

猪は多産な動物でした。そのため、亥の子餅を食すると子孫繁栄がもたらされるという言い伝えもありました。

幕府は無病息災のほか子孫繁栄の御利益も得られるとして、当日、亥の子餅を下賜することも江戸城中の恒例行事として組み入れます。こうして、登城してきた諸大名に対し、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の五色の亥の子餅が下賜されました。

諸大名は下賜された亥の子餅を家臣に分け与え、お祝いをすることが幕府から義務付けられていました。諸大名の家臣が将軍の存在を改めて認識する機会にもなりましたが、これこそ幕府の狙いなのでした。

2022.10 江戸の菓子④【将軍徳川吉宗による砂糖黍栽培の奨励】

江戸時代も後期に入ると、砂糖がふんだんに入った甘味のある菓子が懐の寂しい江戸っ子にも身近なものとなります。そんな菓子の大衆化を支えたのは、何と言っても砂糖の生産量が大幅に増加したことでした。

江戸前期は、わずかに奄美大島や琉球で砂糖黍が栽培されるのみで、ほとんどを輸入に頼らざるを得ませんでした。そうした事態を憂慮した幕府は8代将軍吉宗の時代に入ると、輸入に大きく依存する砂糖の国内自給を目指し、砂糖黍の栽培を奨励します。

幕府の奨励策に刺激され、砂糖黍の栽培そして製糖に取り組んだ農民に、武蔵国橘樹郡大師河原村(現神奈川県川崎市)で名主を勤めた池上幸豊という人物がいます。池上は幕府が試作していた砂糖黍の苗を譲り受け、栽培を試みます。研究を重ねて独自の製糖法を編み出し、明和3年(1768)には黒砂糖や白砂糖の製糖に成功します。以後、全国を回って、その製糖法の普及に努めました。

砂糖黍の栽培そして砂糖の製糖量が伸びることで、もはや輸入に頼る必要もなくなっていくのでした。

2022.11 江戸の菓子⑤【薩摩藩による黒砂糖の増産】

砂糖には白砂糖と黒砂糖の二種類があります。黒砂糖を精製したのが白砂糖ですが、江戸時代、その使い道は異なっていました。

黒砂糖は主に庶民が食べる駄菓子に使われました。調味料として料理にも使用されました。『守貞謾稿』という文献によると、蕎麦屋、天ぷら屋、鰻屋で大量に消費されたそうです。

江戸のファーストフードの発展を陰で支えたのですが、一方、白砂糖は茶席に出されるような高級菓子の製造に使われたため、上流階級で需要が大きかったそうです。

奄美諸島で作られた黒砂糖が現在の鹿児島県にあたる薩摩藩の財政を支えていたことは割合知られているかもしれません。砂糖の供給が需要に追い付かなかったことに目を付けた同藩は奄美の農民に対して砂糖黍の栽培を強制し、それを原料とする黒砂糖を増産させます。そして安く買い上げ、大坂で高く販売することで巨利を挙げます。

江戸後期、薩摩藩は財政難に苦しんでいましたが、黒砂糖の大増産を通じて莫大の利益を掌中に収めます。財政再建に向かって大きく前進するのでした。

2022.12 江戸の菓子⑥【高松藩が開発した和三盆】

薩摩藩により大増産された奄美産の黒砂糖は砂糖の低価格化に大きく貢献し、江戸のファーストフードの発展を陰で支えましたが、白砂糖は依然として品薄でした。輸入に頼らざるを得ない状況に変わりはありませんでした。

そこで、白砂糖の製糖に取り組む藩が現れます。四国の讃岐高松藩です。しかし、白砂糖の増産だけを目指したのではなく、上質な白砂糖の製糖も目指します。試行錯誤の結果、今も讃岐の名産として知られる和三盆が誕生しました。

やがて、高松藩は質量ともに日本一の白砂糖の産地となりますが、その成功に刺激を受けた他藩も白砂糖の製糖に取り組みます。それに伴い、白砂糖の価格も下落し、白砂糖をふんだんに使った菓子の大量生産も可能となりました。

こうして、茶席で使われるような白砂糖入りの高級菓子も手軽に食べれるようになるのです。