2021.01~2021.12 安藤優一郎氏の江戸の歳時記

安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
安藤優一郎氏 講座(NHKカルチャー)のご案内: http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_986821.html

2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
この度、配信していたコラムを年ごとに「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。
2021年は江戸の米①~⑥・ 江戸の野菜①~⑥です。

2021.01 江戸の米①【江戸の町は米が常食だった
2021.02 江戸の米②【白米の常食は江戸煩いを生んだ
2021.03 江戸の米③【1日1回の炊飯だった
2021.04 江戸の米④【江戸では朝、京都・大坂では昼に米を炊いた
2021.05 江戸の米⑤【米の多くが酒造米として消費されていた
2021.06 江戸の米⑥【酒造制限という米の消費制限策があった
2021.07 江戸の野菜①【江戸近郊での野菜栽培
2021.08 江戸の野菜②【江戸の野菜市場
2021.09 江戸の野菜③【ブランド野菜の登場
2021.10 江戸の野菜④【朝鮮通信使への御土産だった練馬大根
2021.11 江戸の野菜⑤【大量生産された沢庵
2021.12 江戸の野菜⑥【練馬大根を沢庵に加工した馬琴

2021.01 江戸の米①【江戸の町は米が常食だった

食文化の豊かさは泰平の世江戸の象徴でした。質量ともに食が豊かになったわけですが、その典型的な傾向が1日2食から3食への流れです。3食となったのは、5代将軍徳川綱吉の時代にあたる元禄期の頃といいます 。

それだけ食糧が増えたのですが、その原動力となったのが米です。ちょうど元禄時代は江戸幕府が誕生して100年ほどが経過し、高度経済成長が頂点に達した時代でした。この100年で、日本の石高は1850万石から2600万石と約5割も増えます。大規模な新田開発の成せる業でした。石高とは米の生産量のことですが、食糧が増えれば人口も増えるのは自然の法則です。実際、同じ100年で人口も約3000万人に倍増しています。

幕府や諸大名は生産者の農民から徴収した年貢米を換金して歳入に充てましたが、売り払った場所は膨大な消費人口を抱える江戸や大坂でした。米が大量に売り払われた結果、江戸では懐の寂しい町人でも白米が安く手に入るようになり、米が常食となりました。そして、1日3食となったのです。

2021.02 江戸の米②【白米の常食は江戸煩いを生んだ

しかし、白米を常食としたがゆえに、皮肉にも江戸の人々は一つの悩みを抱えることになりました。当時「江戸煩い」と称された病気に罹りやすくなったのです。いわゆる脚気でした。

米は米問屋→米仲買→小売りの米屋というプロセスを踏んで、江戸の人々のもとに届けられました。米すなわち玄米を荷受けした米問屋は米仲買に卸し、その後、小売りの搗(舂)米屋【つきまいや】を通じて販売されました。この搗米屋が俗にいう米屋です。玄米を店の臼で精米し、白米とした上で小売りしました。

時代は下りますが、寛政3年(1791)9月の数字によると、江戸全体で搗米屋が2699軒、臼の数が6062柄という記録が残されています。なお、小売価格は仲買からの仕入れ値の2割増が定めでした。1割が精米代で、もう1割が搗米屋の利潤です。

問題なのは、玄米を白米にする過程で玄米に含まれるビタミンB1が無くなってしまうことでした。つまり、白米を常食とすることでビタミンB1が不足勝ちとなり、江戸の人々は脚気に罹りやすくなったのです。

2021.03 江戸の米③【1日1回の炊飯だった

白米を常食にしていたとはいえ、炊飯となると各家庭にとっては一仕事になります。電気やガスもない以上、現代と違って、あたかも毎日が飯ごう炊爨の状態だったからです。薪などの燃料費も掛かりました。
そのため、大勢の使用人を抱える裕福な商家は別として、経済力に乏しい町人などは毎食ごとの炊飯はとても無理で、1日に1回が限度でした。つまり、1日3食分を1度に炊いたのです。

江戸時代の社会風俗書として知られる喜田川守貞の『守貞謾稿』という書物があります。江戸と上方(京都・大坂)を対比して解説を加えているのが特徴の書物でですが、そうした事情は炊飯の解説にもあてはまります。
江戸に次ぐ大都市である大坂や京都でも白米を常食としていました。それだけ、白米が安く買えたのですが、面白いことに江戸と上方では炊飯の時間が違っています。炊飯事情から食文化の違いが見えてくるのです。

2021.04 江戸の米④【江戸では朝、京都・大坂では昼に米を炊いた

江戸時代の社会風俗書である喜田川守貞著『守貞謾稿』によれば、江戸では朝に米を炊いて味噌汁と一緒に食べるのが慣習でした。昼は朝に炊いた御飯の冷や飯で済ませ、食膳には野菜や魚を添えました。夕食は引き続き冷や飯で済ませました。つまり、茶漬けに香の物を添えるのが習いでした。

一方、京都・大坂では昼に米を炊き、煮物や魚類、味噌汁など2、3種類のおかずを添えるのが定番でした。夕食と朝食は昼に炊いた御飯の冷や飯で済ませ、香の物を添えました。3食のうち、江戸では朝食時、京都・大坂では昼食時に炊飯し、残り2食は冷や飯で済ませたのです。

一方、生産者たる農民の大半は普段米を食べませんでした。年貢米を御領主様に納めても手元に半分以上は残る計算でしたが、大半は換金のため売り払って生活費に充てたため手元にはあまり残らなかったのです。
農民は主に麦や粟・稗などの雑穀を常食としました。あるいは米を若干混ぜただけの食事でした。米つまり白米だけ食べるのは、お正月などの「ハレ」の時に限られていました。

2021.05 江戸の米⑤【米の多くが酒造米として消費されていた

江戸時代、幕府や藩に仕えていた武士は俸禄米に加えて、家族や家臣を養うための扶持米を支給されていました。現在の扶養手当にあたりますが、その基準は1日あたり米5合でした。現代の感覚からいうと多すぎますが、1日の飯米を米5合とみなしていたからです。年間360日に換算すると、年に1石8斗支給される計算でした。

幕府は火事や水害に罹災した江戸の町人に御救米を支給することがありましたが、その場合も1日あたり米5合を飯米として支給するのが習いでした。ちなみに、女性には1日あたりの飯米として米4合が支給されました。

武士は白米を常食とし、江戸では町人も同様だったわけですが、農民の大半が白米というよりも米を常食としてなかったことは既に述べました。日本の人口の大半が農民であった以上、武士や江戸の町人が毎食米を食べても、相当の米が余ってしまう計算になります。

実は、米は飯米として消費されただけではありませんでした。酒造米としても相当消費されました。日本で生産された米のうち3分の1が酒造米として消費されたという試算まであるほどなのです。

2021.06 江戸の米⑥【酒造制限という米の消費制限策があった

幕府にせよ藩にせよ、年貢米が最大の収入源でした。年貢米を換金して歳入にあてていた以上、米価はできるだけ高いほどが望ましいと言えます。しかし、消費者の立場からすると米価は安い方が望ましかったのは言うまでもありません。

とりわけ、白米を常食としていた江戸の町人にとり、小売りされる白米価格の高騰は死活問題でした。そのため、米価が高騰すると白米の安売りを米屋に要求する米騒動が起きますが、安売りを拒否した米屋の居宅が打ち壊されることも稀ではありません。

そのため、凶作などのため全国各地から江戸に入る米の量が減り米価が高騰すると、幕府は米の消費に制限をかけます。全国の酒造業者に対して酒造を制限したのです。

時限立法の形で醸造量をそれまでの3分の1あるいは2分の1に制限することで、その分米の消費を減らそうとしました。酒造に使用される米を減らすことで、そのぶん市場に放出される飯米の量が増えて米価は自ずから下がるはずという狙いが込められていました。

酒造制限が米価調節の手法として有効であると幕府に認識されるほど、米は酒造米としても大いに消費されていたのです。

2021.07 江戸の野菜①【江戸近郊での野菜栽培

雑穀類を常食とした農民とは対照的に江戸の人々は白米を常食としましたが、白米ばかり食べていたことでビタミンB1が欠乏します。その結果、「江戸煩い」と称された脚気に罹りやすくなりましたが、そんな偏った食生活を改善してバランスの取れた栄養を取るには、野菜の摂取が不可欠でした。

しかし、当時は鮮度を維持する冷凍施設に欠けていたため、新鮮な野菜は近郊の農村に頼らざるを得ません。こうして、江戸に住む人々向けの野菜作りが近郊農村で活発となっていきますが、一口に江戸近郊農村と言っても、土地柄によって栽培される野菜は異なっていました。

関東ローム層が厚く堆積した江戸西郊台地に拡がる農村では、大根・人参・ゴボウなど根菜類の生産が盛んでした。一方、荒川・江戸川・利根川などの河川により形成された江戸東郊の沖積低地に展開する農村では、芹・蓮根・葱などの葉菜類が栽培されるという特徴がみられました。

2021.08 江戸の野菜②【江戸の野菜市場

江戸に向けて野菜を出荷した近郊農村とは半径約30キロ以内の範囲の農村を指しますが、これは陸路の場合でした。水運が使える場合、船で江戸まで運び込める場合は50~60キロの範囲にまで広がることになります。

江戸向けに栽培された野菜は、将軍の住む江戸城及び大名や幕臣の屋敷に納められた分以外は、江戸各地の青物市場に送られることになっていました。神田・駒込・千住の三つの市場です。

神田市場の場合、水運を活かす形で江戸東郊の農村で作られた野菜が入荷しました。

駒込市場には、中山道や日光御成道沿いの農村で作られた野菜が入荷しました。通常、問屋は荷主の農民から口銭を取って野菜を預かり仲買に売り捌きましたが、駒込市場では事情が少し違っています。問屋を介さずに、荷主の農民と仲買あるいは小売りの八百屋が直接取引していたのが、他の市場にはみられない特徴でした。

日光街道千住宿にあった千住市場には、日光街道や水戸佐倉道沿いの農村で作られた野菜が入荷しましたが、近くを荒川が流れていたため川魚市場(問屋)もありました。

2021.09 江戸の野菜③【ブランド野菜の登場

江戸向け野菜の栽培が盛んになるにつれて、生産地の地名が付けられてブランド化した野菜も登場します。小松菜(葛西菜)はその代表格でした。

貞享4年(1687)に刊行された江戸の地誌『江戸鹿子』には、江戸周辺の名産として江戸東郊に位置する葛西(現東京都江戸川区)の青菜が取り上げられています。享保20年(1735)に刊行された江戸の地誌『続江戸砂子温故名跡志』でも、葛西菜はたいへん柔らかで甘味もあり、他国にはない逸品と評されました。

葛西菜は美味で知られた江戸の名産でしたが、なかでも小松川辺り(現江戸川区)で生産されるものが優良で、特に「小松菜」と呼ばれました。その名付け親は8代将軍徳川吉宗であったと伝えられています。

吉宗が鷹狩りで小松川を訪れた際、地元の農民が葛西菜のすまし汁を進上したことがありました。吉宗はその味に舌鼓を打ち、小松菜という名を与えたといいます。将軍が小松菜のブランド化に貢献していたことを伝えるエピソードでありました。

2021.10 江戸の野菜④【朝鮮通信使への御土産だった練馬大根

小松菜とともにブランド化した江戸の野菜の代表格と言えば、練馬大根でしょう。江戸西郊の農村地帯にあたる現在の東京都練馬区周辺は、根菜類のなかでも大根が作られた地域として知られていました。

練馬大根は5代将軍徳川綱吉の治世である元禄の頃より生産が拡大し、江戸名産の仲間入りを果たします。享保期には品種が改良され、将軍に献上されるまでになります。

この時代、将軍の代替りの際には外交関係のあった朝鮮から祝賀の使節が日本に派遣されるのが習いでした。いわゆる朝鮮通信使の来日ですが、帰国の際のお土産に練馬大根が選ばれていたことはあまり知られていないでしょう。

ただし、朝鮮に戻るまでに大根の鮮度が落ちてしまうため、大根そのものではなく、その種と練馬村の土を御土産に持たせました。練馬の土壌でないと、種が期待どおりに育たなかったからです。延享5年(1748)6月に来日した通信使一行は、練馬大根の種と土を2つの箱(1箱720キロ)に入れて持ち帰っています。

2021.11 江戸の野菜⑤【大量生産された沢庵

幕府から朝鮮通信使への御土産に選ばれた練馬大根は、もちろん大根のままでも食べられましたが、大根から作られた沢庵も江戸の人々にはたいへんな人気でした。

平安時代より塩・糠で漬けた大根漬けは作られていましたが、撹拌せず重い石で漬け込む沢庵漬が登場したのは江戸時代に入ってからです。練馬大根を沢庵に加工する際には、酒樽や酢樽から転用された四斗樽(蓋の直径と樽の高さは54センチ)で漬け込むのが通例でした。一度に60~70本の干大根を漬けることができました。

自家用にとどまらず江戸出荷用として大量生産する場合は、「とうご」と呼ばれた大樽(蓋の直径158センチ、高さ182センチ)が使用されました。四斗樽の60倍以上の容量があり、4000本以上の干大根を一度に漬けることが可能でした。その上には、30~50キロの石が漬け物石として30個以上も載せられました。

大根も沢庵も、江戸までは大八車で運ばれました。生大根は50把(1把は5本)ずつ、沢庵は四斗樽(一樽は70~90本入り)を5つ載せて江戸に出荷されたと伝えられます。

2021.12 江戸の野菜⑥【練馬大根を沢庵に加工した馬琴

練馬大根は自分で沢庵漬けができるよう干大根として出荷される場合もありましたが、干大根を無料で手に入れる方法がありました。練馬村などの農民から、下肥代として干大根を納入させたのです。当時は屎尿が下肥と呼ばれて農作物の貴重な肥料となっており、農民がお金や野菜を支払って屎尿を汲み取っていくのが普通でした。

近郊農村で江戸向け野菜の生産が盛んになると、肥料効果が高いとされた下肥の需要が高まります。農民側は金銭の支払い、あるいは干大根何本・茄子何個納入という契約を江戸の町人たちと個々に取り結び、汲み取り権を得るのが仕来りでした。

瀧澤馬琴の名前で知られる劇作家の曲亭馬琴は練馬村の農民伊左衛門に汲み取り権を与える代わりに、干大根と茄子を年間で300本ずつ納めさせました。当時馬琴は7人家族でしたが、子供が2人いました。子供2人で大人1人分と換算して6人分の現物納としたのです。大人1人に付き、干大根と茄子を50個ずつ納入させる契約でした。
その後、馬琴は下肥と引き換えに入手した練馬産の干大根を自分の家で漬け、沢庵として味わったのです。