2021.01~2021.02 安藤優一郎の江戸の歳時記

安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
安藤優一郎氏 講座(NHKカルチャー)のご案内: http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_986821.html

2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
この度、配信していたコラムを年ごとに「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。
2021年は江戸の米①~⑥・ 江戸の野菜①~⑥です。

2021.01 江戸の米①【江戸の町は米が常食だった
2021.02 江戸の米②【白米の常食は江戸煩いを生んだ
2021.03 江戸の米③【1日1回の炊飯だった
2021.04 江戸の米④【江戸では朝、京都・大坂では昼に米を炊いた
2021.05 江戸の米⑤【米の多くが酒造米として消費されていた
2021.06 江戸の米⑥【酒造制限という米の消費制限策があった
2021.07 江戸の野菜①【江戸近郊での野菜栽培
2021.08 江戸の野菜②【江戸の野菜市場
2021.09 江戸の野菜③【ブランド野菜の登場
2021.10 江戸の野菜④【朝鮮通信使への御土産だった練馬大根
2021.11 江戸の野菜⑤【大量生産された沢庵
2021.12 江戸の野菜⑥【練馬大根を沢庵に加工した馬琴

2021.01 江戸の米①【江戸の町は米が常食だった

食文化の豊かさは泰平の世江戸の象徴でした。質量ともに食が豊かになったわけですが、その典型的な傾向が1日2食から3食への流れです。3食となったのは、5代将軍徳川綱吉の時代にあたる元禄期の頃といいます 。

それだけ食糧が増えたのですが、その原動力となったのが米です。ちょうど元禄時代は江戸幕府が誕生して100年ほどが経過し、高度経済成長が頂点に達した時代でした。この100年で、日本の石高は1850万石から2600万石と約5割も増えます。大規模な新田開発の成せる業でした。石高とは米の生産量のことですが、食糧が増えれば人口も増えるのは自然の法則です。実際、同じ100年で人口も約3000万人に倍増しています。

幕府や諸大名は生産者の農民から徴収した年貢米を換金して歳入に充てましたが、売り払った場所は膨大な消費人口を抱える江戸や大坂でした。米が大量に売り払われた結果、江戸では懐の寂しい町人でも白米が安く手に入るようになり、米が常食となりました。そして、1日3食となったのです。

 2021.02 江戸の米②【白米の常食は江戸煩いを生んだ】

しかし、白米を常食としたがゆえに、皮肉にも江戸の人々は一つの悩みを抱えることになりました。当時「江戸煩い」と称された病気に罹りやすくなったのです。いわゆる脚気でした。

米は米問屋→米仲買→小売りの米屋というプロセスを踏んで、江戸の人々のもとに届けられました。米すなわち玄米を荷受けした米問屋は米仲買に卸し、その後、小売りの搗(舂)米屋【つきまいや】を通じて販売されました。この搗米屋が俗にいう米屋です。玄米を店の臼で精米し、白米とした上で小売りしました。

時代は下りますが、寛政3年(1791)9月の数字によると、江戸全体で搗米屋が2699軒、臼の数が6062柄という記録が残されています。なお、小売価格は仲買からの仕入れ値の2割増が定めでした。1割が精米代で、もう1割が搗米屋の利潤です。

問題なのは、玄米を白米にする過程で玄米に含まれるビタミンB1が無くなってしまうことでした。つまり、白米を常食とすることでビタミンB1が不足勝ちとなり、江戸の人々は脚気に罹りやすくなったのです。