安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。
安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
安藤優一郎氏 講座(NHKカルチャー)のご案内: http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_986821.html
2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
この度、配信していたコラムを年ごとに「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。
2020年は江戸のファーストフード①~⑥・ 江戸の肉①~⑥です。
2020.01 江戸のファーストフード①【握り寿司の登場】
2020.02 江戸のファーストフード②【握り寿司を支えた酒粕】
2020.03 江戸のファーストフード③【蕎麦屋の隆盛】
2020.04 江戸のファーストフード④【水車が支えた蕎麦人気】
2020.05 江戸のファーストフード⑤【寿司より安かった天ぷら】
2020.06 江戸のファーストフード⑥【高級化路線が進んだ天ぷら】
2020.07 江戸の肉①【肉食がタブー視される】
2020.08 江戸の肉②【広く食べられた鶏肉】
2020.09 江戸の肉③【卵の普及】
2020.10 江戸の肉④【鶴の肉の御吸い物】
2020.11 江戸の肉⑤【「山鯨」と称して食べた猪や鹿の肉】
2020.12 江戸の肉⑥【高級品だった牛肉】
2020.01 江戸のファーストフード①【握り寿司の登場】
江戸は男性が女性の数を凌駕していた都市で、それも単身者が多かったため、そんな男性を対象とした産業が発展しましたが、その代表的な産業と言えば外食産業でした。それも注文してからすぐ食べれる食品が重宝がられます。いわゆるファーストフードです。一口にファーストフードと言ってもバラエティに富みますが、江戸のイメージが強いのは握り寿司、蕎麦、天ぷらといったところでしょう。まず握り寿司からみていきます。
江戸前期の寿司は、塩で下漬けした魚介類を蒸米と一緒に漬け込み自然発酵させた「馴れずし」が主流でした。しかし、発酵して食用となるまでの時間が長いことから、熟成期間を短縮した「押しずし」などの「早ずし」が登場します。その後、酢飯に魚の切り身を乗せて握り、醤油を付けて食べる現在の握り寿司が考案されたのです。
2020.02 江戸のファーストフード②【握り寿司を支えた酒粕】
握り寿司は手軽に食べれたことが江戸っ子の間で大いに評判を呼びますが、価格が安かったことも人気に拍車を駆けました。一つあたり、四文あるいは八文が標準価格でした。現在の貨幣価値に換算すると100円程度ですが、そんな低価格に大きく貢献したのが酒粕で作られた酢なのです。
握り寿司に使われていた酢は米酢でしたが、当時米を原料とする酢の価格は高かったといいます。しかし、酒を絞った際の粕を原料とする酢の醸造が可能となったことで、低コストで酢が造れるようになりました。原料がタダのようなものだったからです。さらに、酒粕には甘味があるため、塩と一緒にご飯に混ぜるだけで美味な酢飯が作れました。割合効果だった砂糖を加える必要もなく、低価格で握り寿司を提供できたのです。酒粕を原料とする酢の醸造に成功したのが、尾張国知多郡半田村(現愛知県半田市)で酒造業を営んでいた中野又左衛門という人物でした。ミツカングループの創業者です。
2020.03 江戸のファーストフード③【蕎麦屋の隆盛】
江戸以前、蕎麦は製粉した蕎麦を丸めてこねる「蕎麦がき」や「蕎麦餅」などの形で食べられていましたが、江戸時代に入ると、麺状に整えられた蕎麦切りが登場します。
江戸初期、麺類と言えばうどんでした。うどん屋がうどんを売る傍ら蕎麦を売りましたが、江戸っ子の間での蕎麦人気を背景に蕎麦屋が増えることで、逆に蕎麦屋でうどんが扱われるようになったのです。江戸時代の社会風俗書『守貞謾稿』によれば、幕末には1つの町に蕎麦屋が1軒あったといいます。万延元年(1860)に江戸町奉行所が調査したところによれば、江戸には3763軒の蕎麦屋がありました。ただし、これは店舗の数で、屋台の蕎麦屋の数は含まれていませんでした。屋台も含めれば、5000軒を越えていたかもしれません。
ちなみに二八蕎麦の語源ですが、かけ蕎麦1杯16文にかけて2×8=16文という価格説。蕎麦粉が8割で、小麦粉などのつなぎが2割という配合説があります。
2020.04 江戸のファーストフード④【水車が支えた蕎麦人気】
蕎麦人気を支えたのは何と言っても安さでした。かけ蕎麦1杯で握り寿司2個分ぐらいの値段でしたが、低価格を可能にしたのが水車だったことはあまり知られていないでしょう。原料の蕎麦にせよ、つなぎの小麦にせよ、製粉作業が必要でした。臼で挽いて蕎麦粉や小麦粉にする必要がありました。江戸中期まで、蕎麦屋は農民から蕎麦や小麦のまま買い入れ自家で製粉しましたが、人力による作業では製粉量におのづから限界がありました。つまり、蕎麦粉の価格に人件費が上乗せされる格好でした。
しかし、江戸後期に入ると、農民たちが村の水車を活用して精米のほか製粉もおこなうようになります。蕎麦粉や小麦粉の形で蕎麦屋に出荷しはじめたのです。一種の機械による製粉ですから、人力よりも大量に安く製粉できました。原料の蕎麦粉や小麦粉の価格が下がったことで、蕎麦も安く食べれるようになったわけです。
こうして、蕎麦人気に拍車がかかります。店舗にせよ屋台にせよ、蕎麦屋が続々と江戸の町に生まれていったのです。
2020.05 江戸のファーストフード⑤【寿司より安かった天ぷら】
天ぷらはもともと西洋から伝えられた揚げ物の料理でした。江戸初期の上方では、魚のすり身に衣を付けた揚げ物が「つけあげ」の名で人気を博したそうです。一方、江戸では「胡麻揚げ」という野菜の揚げ物が人気を呼びますが、やがて魚肉の揚げ物は別に「天麩羅」と呼ばれるようになります。その後、天ぷらという名称が定着しました。
油を使うことから、当時天ぷらは外の屋台で揚げられました。匂いや煙が出るほか、引火して家が火事となる危険性を避けるには屋外の方が都合が良かったからです。江戸湾で取れた魚介類(「江戸前」)の揚げ立てが串に刺して屋台に並べられ、江戸っ子がタレにつけて食べるのが定番でした。価格は握り寿司と同じく四文が標準でした。安価な庶民向けの食べ物として人気がありましたが、そんな低価格を支えたのは安価な油だったのです。
2020.06 江戸のファーストフード⑥【高級化路線が進んだ天ぷら】
江戸時代に入っても、長らく油は灯油用として使用されていました。料理用にはあまり回りませんでしたが、江戸中期に入ると上方を中心に菜種や胡麻の生産がたいへん盛んとなります。つまり、菜種油や胡麻油が大増産されたことで、安価な油を料理用にも回せるようになったのです。
天ぷらの場合、他のファーストフードとは異なり高級化路線もみられました。『守貞謾稿』によれば、穴子、芝海老、こはだ、貝柱、スルメが天ぷらの種でしたが、江戸後期の文化年間(1804~18)に鰹なども使いはじめて人気を博したことが高級化のはじまりなのだそうです。
さらに、「出張てんぷら」という業態も登場します。依頼のあった家に材料と道具を持ち込み、その場で揚げ立てを食べてもらうというわけです。これも天ぷらの高級化路線の一つでした。
2020.07 江戸の肉①【肉食がタブー視される】
かつて、日本では肉食がタブー視されていました。殺生禁断を重視する仏教の拡がりが背景にあると指摘されるのが一般的ですが、稲作との関係も無視できないという指摘もあります。
古代には肉食禁止令も出されていますが、それは4~9月までの稲作の期間に限定されました。肉食つまり動物の殺生が稲作の妨げ(穢れ)になるという考え方が広まった結果、肉食を慎むことで稲作への害を避けたい意図から同令が出されたのだそうです。
それだけ、稲が無事に実ることが日本にとっては重要でした。米は聖なる食べ物として敬われました。天皇も稲の収穫を祝って新穀を神々に供え、そして自分も食することで翌年の豊穣を祈願する新嘗祭(にいなめさい)を執り行っているほどです。言い換えると、稲作に支障がなければ肉食は許容されました。
江戸時代に入っても肉食をタブー視する風潮は続きますが、鳥類は例外でした。
2020.08 江戸の肉②【広く食べられた鶏肉】
江戸初期にあたる寛永20年(1643)に、『料理物語』という本が刊行されています。同書には、鴨・雉・鷺・鶉・雲雀など18種もの野鳥が取り上げられており、様々な鳥が食用だったことが分かります。鴨の場合は汁・刺身・なますなど15種類以上もの料理法が紹介されています。
現在、鳥類のなかで最も食べられている鶏は卵を産む家畜として飼育されたこともあり、江戸初期の頃はあまり食べられていませんでした。鶏の鳴き声には太陽を呼び戻す力があるとされ、神聖視されたことも大きかったようです。
しかし、食用だった野鳥が乱獲されて鳥肉が不足すると、家畜用の鶏も次第に食べられるようになります。
文化年間(1804~18)以降、京都や大坂では「かしわ」と呼ばれて葱鍋として食べられています。江戸では「しゃも」という呼び名で食べられました。
2020.09 江戸の肉③【卵の普及】
現代と同じく食用だったのは、鶏の肉だけではありません。鶏が生む卵も食用でした。当初は高級品でしたが、肉用に加えて採卵用の養鶏も盛んとなったことで、価格が低下していきます。
卵も生卵のまま食べたのではありません。ゆで卵で売られており、大きいもので約20文といいますから、かけ蕎麦1杯16文よりも少し高いぐらいの値段でした。毎年4月8日には、あひるの卵も一緒に売られました。この日にあひるの卵も食べると、中風にはならないという言い伝えがあったからです。
それに伴い、卵料理の数も一気に増えます。天明5年(1785)に刊行された『万宝料理秘密箱』には、103種類もの卵料理が掲載されています。同年刊行の『万宝料理献立集』でも掲載された料理の献立すべてに卵が挙げられ、卵料理の普及ぶりが窺えます。
2020.10 江戸の肉④【鶴の肉の御吸い物】
武士の間では鶴の肉も食べられました。それも鷹狩りを楽しんだ将軍から拝領された形でした。鷹を野山に放って鶴・雉・雁・雲雀などの鳥類を捕える鷹狩りという行為は、将軍にとっては堅苦しい城内の生活から解放され、城外に出れる貴重な機会でした。その折、鷹が捕獲した鳥類は諸大名に下賜されることになっていました。
鶴は長寿の象徴として古来より珍重され、鶴の料理などは最高級のおもてなしとされたほどです。よって、将軍の鷹が捕獲した鶴を拝領した諸大名側は、宴席を設けて家中で共食することが義務付けられた。
大名家では、将軍から拝領した鶴の肉の切り身をお吸い物にして家中で食べるのが決まりでした。将軍の存在をその大名家に改めて周知させようという幕府の目論見が秘められていたのです。
2020.11 江戸の肉⑤【「山鯨」と称して食べた猪や鹿の肉】
江戸っ子の間では鶏肉が人気を呼び、武士の間では鶴も食べられましたが、四つ足の動物を食べることは一般的ではありませんでした。しかし、江戸後期にあたる文化・文政・天保期そして幕末に近づくと、獣肉を調理する店は格段に増えます。それだけ、鳥以外の獣肉が食べられるようになったからです。
獣肉を扱う料理屋の店先の行燈には「山鯨」という文字が書かれ、御客さんを呼び込みました。店内入ると、山鯨こと猪や鹿の肉に葱を加え、鍋で煮た料理が出されました。肉食をタブー視する風潮に配慮し、あくまでも鯨として食べられたわけです。幕末にあたる嘉永年間(1848~54)以降には、琉球鍋と称されて豚肉も食べられるようになります。
随筆家の寺門静軒が書いた『江戸繁昌記』にも、猪などの獣肉を「山鯨」と称して薬食いの名目で食べられるようになったと記されています。薬食いの名目で食べられたことにも、肉食をタブー視する風潮への配慮が窺えます。
2020.12 江戸の肉⑥【高級品だった牛肉】
江戸で獣肉を扱う料理屋は、北関東の山間部から材料の獣肉を得ていました。農民たちは猪鍋を「牡丹鍋」、鹿鍋を「紅葉鍋」などと称して食べており、鳥肉以外の獣肉を食べることにはあまり抵抗感はなかったというのが実際のところです。山間部では猪や鹿の狩猟も盛んだったことから、獣肉の供給源にもなっていたのです。
明治に入ると、牛鍋屋が繁昌したことに象徴されるように、文明開化の時流を受けて欧米の食文化が日本人の間に広まります。そのため、牛肉が食べられるようになったのは明治からという印象も強いのですが、実は大名の間では牛肉が贈答品として珍重されていました。
大老井伊直弼が藩主だった彦根藩井伊家では、将軍や諸大名に牛肉の味噌漬けを贈り、たいへん喜ばれていました。上流階級の間では牛肉が食べられていたのです。