2019.1~2019.12 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
安藤優一郎氏 講座(NHKカルチャー)のご案内: http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_986821.html

2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
この度、配信していたコラムを年ごとに「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。
2019年は「江戸の将軍食①~⑥」「江戸の魚①~⑥」です。

2019.01 将軍食①【将軍の食事はどのように作られたのか】
2019.02 将軍食②【大奥では御台所と一緒に食事をした】
2019.03 将軍食③【将軍や御台所が食べ残した食事はどうしたのか】
2019.04 将軍食④【質素だった将軍の食事】
2019.05 将軍食⑤【将軍が食べれなかったもの】
2019.06 将軍食⑥【ひとり酒を強いられた将軍】
2019.07 江戸の魚①【江戸前の魚】
2019.08 江戸の魚②【海苔養殖の普及】
2019.09 江戸の魚③【日本橋魚市場が果たした役割】
2019.10 江戸の魚④【幕府が魚問屋に与えた助成地】
2019.11 江戸の魚⑤【江戸料理を支えた鰹節】
2019.12 江戸の魚⑥【魚の多様な使い道】

2019.01 将軍食①【将軍の食事はどのように作られたのか】

江戸城の将軍は、本丸御殿のうち「中奥」と称された空間で食事を取るのが通例でした。現在の家に喩えると、城のなかでは居間のような生活空間でした。毎朝、午前6時に中奥で起床した将軍は、洗顔や結髪、医師による健康診断を済ませた後、8時に朝食を取ります。

将軍の食事が用意されるのは、中奥内の「御膳所」【ごぜんしょ】という場所でした。煮炊きは同じ中奥の「囲炉裏之間」【いろりのま】が炊事場として使われました。調理を担当したのは、台所頭という役人でした。

食事が出来上がると「御膳立之間」に運ばれ、将軍の飲食物の毒見役を勤める御膳奉行が毒見をおこなう。毒見が済むと、再び「囲炉裏之間」に運ばれて温め直され、将軍の御前に出されました。

食膳は三人前が用意されました。将軍の分と、給仕と毒見役を兼ねる御小姓二人の分です。その後、いよいよ将軍の食事となりますが、御小姓の役目は毒見だけではありません。将軍の食べる速度に合わせて食べることが求められていました。

2019.02 将軍食②【大奥では御台所と一緒に食事をした】

将軍が中奥で食べる場合は御小姓が給仕にあたりましたが、大奥で食べる場合は事情が異なります。大奥は御殿のうち将軍の寝室のような場所であり、男子禁制の空間となっていたからです。大奥では将軍の正室・側室、その子女が起居するとともに、数百人の奥女中が住み込みの形で職務にあたっていました。まさに女性の園でした。

大奥では将軍の正室である御台所と一緒に食事を取るのが習いでした。もちろん、毒見役が付きます。将軍や御台所の世話役を勤める御中臈【ごちゅうろう】と呼ばれた奥女中が毒見役を勤めました。大奥で食事を取る場合も、中奥で調理された食事が届けられるのが決まりでした。中奥と大奥の間の連絡通路となっていた御鈴廊下を通して、食膳が運ばれたのです。

2019.03 将軍食③【将軍や御台所が食べ残した食事はどうしたのか】

中奥から大奥に運ばれてきた食膳ですが、運ばれている間に冷めてしまいますから、大奥の調理場で温め直されることになります。改めて調理されたり、味付けが加えられることもありました。

食事場所が中奥でも大奥でも、将軍は自分の食膳をすべて平らげたわけではありません。食膳に九品のぼっていたとしても、将軍の箸が付けられるのは二品ぐらいだったようです。もちろん将軍の好みにより残る量も増減しましたが、いずれにせよ相当余ってしまいます。御台所にしても、そうした事情は同じでした。

大奥で食事した場合は、毒見役以外の御中臈たちが残った分を食べることになっていました。中奥の場合は将軍残した分は御小姓などが食べたのでしょう。なお、大奥では中奥から運ばれてきた食事はまずいという評判だったようです。

2019.04 将軍食④【質素だった将軍の食事】

今回は、将軍の食膳にのぼった品を具体的にみていきましょう。そもそも、将軍といっても豪勢な食事だったわけではありません。むしろ逆でした。普段の食事は実に質素なものでした。食事だけではありません。食器も粗末な塗り椀が通例です。将軍が城の外に出て休憩所の寺院で昼食などを取る時は、葵の紋所入りの立派な食器が用意されますが、普段は質素な塗り椀でした。外側は黒塗りで、内側は朱塗りでした。

通常、朝食は一の膳だけです。ご飯に味噌汁、香の物、肴が付く程度でした。時には、二の膳で焼き物が付くこともありました。昼食も同じようなものでしたが、夕食の場合は食膳にあがる品数もさすがに多くなり、九品ぐらいになります。御飯は、「蒸飯」【むしいい】でした。煮上げた米を釜で蒸したものですが、味は淡泊だったと伝えられます。

2019.05 将軍食⑤【将軍が食べれなかったもの】

将軍となると、食べるものに厳しい制限がかけられていました。例えば、鶏・鴨・雁・兎などの鳥類は別として、獣類は食膳にのぼりませんでした。要するに、豚肉や牛肉は食べませんでした。魚も線引きされています。サンマ、イワシ、マグロなどは将軍の食膳から外されていました。脂身が忌避されたのです。だから、落語「目黒のサンマ」が生まれることになるわけです。

魚の干物類、あるいはアサリ、カキ、赤貝といった貝類も外されていました。野菜も同様です。ネギ、ニラ、ラッキョウ、ニンニク、インゲンマメなどもNGでした。果物にしても、梨・柿・ミカン以外は食膳にのぼりませんでした。残念ながら、その理由はよくわかっていません。

2019.06 将軍食⑥【ひとり酒を強いられた将軍】

前回は将軍が食べれなかったものを御紹介しましたが、食べれたものさえ食べれない日がありました。歴代将軍の命日です。精進日に指定されていたからです。精進日の食膳には肉や魚類は一切のぼりませんでした。当然ながら、時代が下るにつれて精進日は増えてしまうわけで、魚や鳥肉を好む将軍には苦痛でした。

酒好きの将軍は別として、酒はさほど嗜まなかったようです。将軍としての立場上、家来と酒を酌み交わすわけにはいきませんでした。結局一人で飲まなければなりません。ですから、飲む気が起きなかったのです。酒は献上されたものを呑みました。これを「御膳酒」と呼びました。しかし、献上されてから時間が経過したため劣化してしまっていることか多かったようです。真っ赤に変色して変な匂いもしたため、美味しくもなかったといいます。

2019.07 江戸の魚①【江戸前の魚】

江戸風の食べ物を表現する言葉として、「江戸前」は現在でも良く耳にします。もともとは江戸の前面の海、つまり江戸近海で取れた新鮮な魚を指す言葉でした。当初は浅草や深川近辺で取れたウナギを指していたそうですが、ウナギ以外の魚についても次第に江戸前と呼ばれるようになります。

江戸湾で取れた魚介類はタイ・カレイ・キス・スズキ・ボラ・ハゼ・シラウオ・ウナギ・アナゴ・イカ・エビ・ハマグリ・アサリなど、実にバラエティーに富んでいました。江戸湾から水揚げされた海水魚はアユやコイなどの淡水魚とともに、江戸っ子にとり動物性タンパク質の貴重な供給源となっていました。

しかし、当時は鮮度を維持する冷凍施設に欠けていました。そのため、江戸っ子が食べれた魚は江戸前の海域にあたる江戸湾最奥部(品川沖~深川・洲崎沖)から、三浦・房総半島周辺までの海域で漁獲されたものにとどまりました。それより遠い場所で取れた魚は江戸に運んでくるまでに腐ってしまったわけです。

2019.08 江戸の魚②【海苔養殖の普及】

江戸が百万都市へと成長していくのに伴い、消費される魚介類の需要も拡大していきます。それまでは江戸湾沿岸に広がる漁村の漁民たちが江戸の魚市場に魚介類を送っていましたが、従来の漁法では拡大する需要をみたすだけの漁獲量を確保できなくなります。そこで登場したのが、江戸湾岸に移住してきた関西の漁民たちでした。

彼らは百人規模での地引網や大型定置網漁法を江戸湾で駆使することで、大量の漁獲高をあげます。しかし、「地獄網」とも称された漁法を通じて、魚介類が根こそぎ漁獲されたことで、江戸湾岸の漁民は不漁に苦しむようになります。

漁民たちは魚を求めて活動範囲を広げていきますが、一方では養殖の技術も進みます。江戸湾のうち品川・大森沖で海苔の養殖業が盛んとなるのです。品川沖などで養殖された海苔を隅田川沿いの浅草で加工したのが、江戸名物となる浅草海苔のはじまりでした。

2019.09 江戸の魚③【日本橋魚市場が果たした役割】

江戸湾で取れた魚介類は日本橋の魚市場に送られましたが、この魚市場を作ったのも関西から移住してきた漁民たちでした。江戸が百万都市へと成長し、消費される魚介類の需要が拡大していたことをビジネスチャンスと捉え、江戸に進出してきたのです。幕府が日本橋魚市場に期待した役割は、水揚げされた魚介類を江戸城に納入することでした。将軍の食膳にのぼる魚は御膳魚、あるいは御菜魚【みさいうお】と呼ばれました。

幕府は江戸湾岸の八つの浦(芝金杉・本芝・品川・大井御林・羽田・生麦・子安新宿・神奈川浦)に対し、鮮魚を納入する役目を課していました。「御菜八ケ浦」と称された各浦は、鮮魚を月3度献上するよう義務付けられました。しかし、どうしても上納できない魚は日本橋魚市場が代わって納めることになっていたのです。

2019.10 江戸の魚④【幕府が魚問屋に与えた助成地】

日本橋魚市場には、幕府の注文に応じて御膳魚を江戸城に納入する魚会所が置かれていました。魚会所には魚問屋が交代で常駐し、納入業務にあたっています。魚問屋にとり、いわば幕府の御魚御用を勤めるのはたいへん名誉なことでした。しかし、幕府から支払われた価格は市価に比べるとかなり低く、市価の5~6分の1に過ぎなかったそうです。買い叩かれていたのです。

これでは幕府に魚を納めれば納めれるほど、損をすることになります。いくら名誉でも耐えられるものではなく、魚問屋が御魚御用を辞退するのは時間の問題となります。幕府は魚問屋をして御魚御用を継続させるため、土地を与えることを決めます。その土地を貸し付けて得た地代収入で損失を補填させようとしたのです。この助成地により、幕府は市価の5~6分の1で新鮮な魚を江戸城まで届けさせたのです。

2019.11 江戸の魚⑤【江戸料理を支えた鰹節】

魚はそのまま食べるだけでなく、加工されることも多い食べ物でしたが、代表的な加工物としては鰹節などの出汁が挙げられます。「眼には青葉 山ほととぎす 初鰹」というフレーズに象徴されるように、江戸の初物の代表格として鰹は人気を誇りましたが、刺身よりも鰹節として消費されることが多い魚でもありました。鰹節は室町時代に生まれた食品ですが、品質が向上したのは江戸時代に入ってからです。

日干しに加えて燻蒸を繰り返すことで乾燥が強化されましたが、表面に良質の青カビを付着させて他のカビの増殖を防ぐ製法を導入することで、品質が向上していきます。乾燥のみならずカビ付けを繰り返すことで、香りの高い鰹節が作られたのです。そんな鰹節を出汁として使用することで、江戸の料理文化のレベルは向上していきました。

2019.12 江戸の魚⑥【魚の多様な使い道】
 
全粋取り上げた鰹節は江戸の調味料の代表格でしたが、江戸時代に広まった調味料と言えば昆布も外せません。昆布は三陸以北にしか自生していませんでしたが、江戸時代に入ると海運の整備により、東北産の昆布が大量に関西などへ送られるようになりました。日本海を東西に行き来した北前船の成せる業でした。

昆布は出汁として使用されただけではありません。塩昆布に加工されたり、精進料理にも使用されました。

魚は肥料としても加工されました。これを魚肥といいます。特に、脂分を絞った鰯を干して作られた干鰯【ほしか】などは木綿作に大量に投与されました。江戸時代の木綿産業の発展に大きく寄与した魚肥として、干鰯は歴史に名を残しています。