2016.1~2016.12 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏のプロフィール

日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

江戸をテーマに執筆・講演活動を展開。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
配信していたコラムを年毎に「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。

 

2016.01【江戸の初詣】
2016.02【江戸の豆まき】
2016.03【江戸の三社祭】
2016.04【江戸の灌仏会】
2016.05【江戸の兜市】
2016.06【江戸の山開き】
2016.07【江戸の七夕】
2016.08【江戸の八朔】
2016.09【江戸のお彼岸】
2016.10【江戸の菊見】
2016.11【江戸の顔見世興行】
2016.12【江戸のすす払い】

2016.01【江戸の初詣】

間もなく新年がやって来ますが、元旦から都内の寺社は初詣の人たちで大いに賑わうことでしょう。初詣と言えば元旦の風物詩ですが、江戸の人々の元旦は恵方参りではじまります。恵方とは、その年に縁起がよいとされる方角のことですが、干支によって恵方は毎年変わります。そして恵方参りとは、元旦の早朝に恵方にあたる寺社に参詣してお守りやお札をいただくことですが、この習慣が現在の初詣につながっていると言われています。

恵方参りとは別に、その年最初の縁日に寺社参りする習慣もありました。例えば、松の内におこなう七福神詣、初めての子の日(初子)の大黒詣、初めての寅の日(初寅)の毘沙門天詣があります。

日にちが固定した縁日としては、八日の初薬師、十八日の初観音、二十一日の初大師、そして二十八日の初不動が挙げられます。これもまた、恵方参りに勝るとも劣らず参詣者で賑わったのです。

2016.02【江戸の豆まき】

初詣の次に都内の寺社が参詣者であふれるのは、二月三日の節分でしょう。節分とは元来、季節が変わる前日を指す言葉です。立春、立夏、立秋、立冬の前日のことですが、一般的には立春(二月四日)の前日が思い浮かびます。

節分といえば豆まきが欠かせません。その風習はたいへん古く、奈良時代以前の文武天皇の時代からおこなわれています。当時は「追儺(ついな)」と呼ばれました。追儺とは悪鬼や疫病を追い払う中国伝来の行事のことで、平安時代には宮中の行事として盛大に執り行われました。その風習が全国の寺社に広まり、その過程で豆をまくことがはじまったといいます。

豆をまくことで災いを除いて福を招こうとしたわけですが、この風習を関東で最初にはじめたのは浅草寺と伝えられています。浅草寺での豆まきが江戸庶民の間でも広まり、年中行事になっていったのです。

2016.03【江戸三社祭】

豆まきの風習がはじまったと伝えられる浅草寺の境内に取り込まれる形で、浅草神社は鎮座しています。浅草神社のお祭り・三社祭は、現在五月に執り行われていますが、江戸の頃は三月でした。

三月の風物詩でもあった浅草の三社祭は、江戸っ子を大いに熱狂させます。なかでも、三基の神輿が隅田川を渡る「船渡御」は、そのクライマックスでした。ちなみに、隅田川の上流部分は宮戸川といいます。浅草寺の本尊である観音様(浅草観音)は、推古天皇三十六年(628)三月十八日に宮戸川から引き揚げられ、祀られたものでした。そんな由緒もあり、隅田川を渡御する三社祭は三月十七日と十八日が例祭日となっていました。

ところが、明治五年(1872)に例祭日は五月十七日と十八日が例祭日に変更されます。そして昭和三十八年(1963)以降は、この両日に近い金土日が充てられ、現在に至っています。

2016.04【江戸の灌仏会】

三月下旬から四月上旬にかけ、関東は桜の花見のシーズンに入ります。花見客が隅田川縁など花見の名所に一斉に繰り出していきますが、その最中にあたる四月八日、浅草寺などの寺院では灌仏会が盛大に執り行われます。

灌仏会とは、お釈迦様の誕生を祝う釈尊降誕会のことです。一般にはお釈迦様の日、花祭という言葉で知られているでしょう。花で飾った小堂(花御堂)を作り、御堂内の水盤に安置したお釈迦様に柄杓で甘茶を注ぎ、それを持ち帰って飲むという行事です。

江戸でも、毎年四月八日に各寺院で灌仏会が執り行われましたが、境内の庭を一般公開する日にもなっていたことはあまり知られていないでしょう。ふだん、江戸っ子は寺院に御参りすることはできても、その庭には入れませんでしたが、お釈迦様の日に限って一般公開されることが多かったようです。江戸っ子にとっては、ふだん入れない寺院の庭園を散策することも灌仏会の楽しみなのでした。

2016.05【江戸の兜市】

五月の端午の節句が近くなると、空に鯉のぼりがはためくようになりますが、家の中では兜をかぶった人形が飾られます。言うまでもなく、端午の節句に備えた縁起物です。

鯉のぼりや兜は端午の節句の代名詞だったわけですが、江戸っ子はどこで買い求めたのでしょうか。現在の東京都中央区日本橋室町三・四丁目にある大通り(中央通り)に十軒店(じっけんだな)と呼ばれた場所がありました。三月の桃の節句の時に飾るひな人形を売る店が十軒並んでいたことがその名の起こりですが、売っていたのはひな人形だけではありません。

端午の節句が近づくと、兜人形や鯉のぼりも売られていたのです。その様子は「兜市」と称されました。ちなみに、桃の節句では「ひな市」と呼ばれたそうです。

五月が近づくと、中央通りには兜人形や鯉のぼりが数多く並べられていたのです。

2016.06【江戸の山開き】

富士山が日本人にとって特別な存在であることは今も江戸も変わりはありませんが、現代ほど気軽に登山できたわけではありません。そのため、地元に富士山を模した富士塚を造り出すことで富士登山の代りとしました。当時富士山は女人禁制でしたが、富士塚なら女性でも登ることができました。

富士山を厚く信仰する人々により結成された講を富士講と呼びますが、富士塚の造成においても富士講のメンバーは大いに力を尽くしています。その年に初めて登山を許すことを山開きと言いますが、江戸時代、富士山は六月一日が山開きの日でした。

それに倣い、江戸の町内に造られた富士塚の山開きも同日とされました。よって、その日に富士講の人々が集まり、富士塚に登って富士登山の代りとすることが江戸の六月の風物詩となったほどです。

江戸時代の六月一日は、江戸の町の各所で山開きの光景が展開されていたのです。

2016.07【江戸の七夕】

七月に入ると梅雨明けも近くなりますが、この月の代表的な行事と言えば七夕でしょう。江戸っ子も、年に一度の七夕の日をたいへん楽しみにしていました。この日、願い事などを書いた短冊が飾られることは今も江戸も変わりはありませんが、七夕の日恒例の食べ物があったことはあまり知られていないかもしれません。素麺を食する日でもあったのです。

古来七月七日とは、畑作の収穫を祝うお祭りが盛大に執り行われる日でしたが、その際、健康を祈り索餅(さくべい)というお菓子を食べるのが習慣となっていました。索餅とは小麦粉と米の粉を練り、そして縄の形にねじった上で油で揚げた唐菓子の一つですが、やがて舌触りの良い素麺が代って食べられるようになります。

こうして、七夕の日に素麺を食べるのが習慣となりました。そして、現在では全国乾類協同組合連合会が七月七日を素麺の日に設定しているのです。

2016.08【江戸の八朔】

八月が近づいてくると本格的な夏の到来となりますが、江戸幕府にとって八月一日は非常に重要な日でした。天正十八年(1590)に徳川家康は関東の領主として江戸城に入りましたが、この日が入城の日だったのです。

そのため、幕府は八月一日つまり「八朔」の日を徳川家の記念日と位置づけます。そして、武士たちを白帷子(しろかたびら)で登城させ、将軍に祝意を表することを義務付けました。この日、江戸城は白帷子姿の武士で大混雑したことでしょう。

しかし、江戸っ子にとっては、「八朔」というと吉原でおこなわれた行事の方が身近だっかもしれません。この日、吉原では白無垢姿の花魁道中(おいらんどうちゅう)が見られたからです。元禄の頃からはじまったイベントでした。

八月一日、江戸城そして吉原では白を基調とした行事が繰り広げられていたのです。

2016.09【江戸のお彼岸】

立秋も過ぎると次第に秋めいていきますが、九月は三月と並んでお彼岸の季節です。彼岸会とは平安時代はじめ、朝廷が皇祖の追善供養のため春と秋の七日間、全国の国分寺で金剛般若経を読経させたのがはじまりでした。江戸時代には庶民の間にも彼岸会の行事が定着しましたが、子供たちには供えられる食べ物の方に関心があったのではないでしょうか。

秋のお彼岸の際、仏前に供えられる食べ物としては「おはぎ」が定番です。小豆の粒を秋に咲く萩に見立て「おはぎ」と呼んだわけですが、春のお彼岸の際にも同じ食べ物が「ぼたもち」として供えられました。小豆の粒を春に咲く牡丹に見立てることで、そう呼ばれたのです。

お彼岸に「おはぎ」を食べる風習が定着したのは、江戸時代からと伝えられています。小豆の赤色には邪気を払う効果があると信じられていました。「おはぎ」を食べることで、先祖の供養とともに邪気払いの効果を期待したのでしょう。

2016.10【江戸の菊見】

秋の花というと菊が代表的ですが、江戸時代は「菊の花見」つまり菊見が盛んでした。この時代は園芸文化が花開いた時代と言われます。上は将軍・大名、下は江戸っ子まで、植木や草花を愛好するガーデニングブームが到来した時代でした。現代風に言えば、都市化によって身の回りから自然が失われてしまっていたことが背景にありました。

植木の中でも特に人気があったのが朝顔や菊ですが、菊については一本の菊の枝葉を加工することで菊細工と称される作品が生まれます。ついには菊人形という飾り物まで生み出されました。菊見を楽しんだ場所ですが、植木屋のほか寺社の境内も挙げられます。参詣者向けに、菊の飾り物を展示したのです。参詣者のアップにもつながったことでしょう。

花見というと春の桜の花見が思い浮かびますが、秋の菊見も江戸っ子には人気があったようです。

2016.11【江戸の顔見世興行】

十一月が近づいてくると、芝居好きの江戸っ子は心が浮き立ってきます。この月、江戸三座で顔見世興行が執り行われるからです。江戸時代、歌舞伎役者の契約期間は十一月から翌年十月まででした。そのため、各芝居小屋での十一月の興行とは、この役者たちで一年間興行していきますというものになっていました。契約した役者たちの顔ぶれを見せる興行であったことから、顔見世興行と呼ばれたわけです。

歌舞伎役者はもとより歌舞伎界にとっても、十一月は一年のはじまりでした。芝居関係者は興行初日から三日間は裃姿、あるいは羽織袴姿でした。そして、御雑煮で顔見世興行を祝っています。お正月三が日のようなものでした。

天保改革で江戸三座が浅草に移転する前まで、現在の日本橋人形町界隈そして銀座に広がっていた芝居街は、この頃お正月気分に浸っていたのです。

2016.12【江戸のすす払い】

毎年十二月が近づくと年末の訪れを感じるようになりますが、年末恒例の江戸の行事として、「すす払い」があります。「すす掃き」ともいいました。お正月を迎えるにあたり、一年分の汚れを落としてその年の厄を払うため、屋内のすすや埃を祓い清めたのです。すす払いは、笹や藁を先端に付けた竹竿を使って行なわれました。

江戸の町では、毎年十二月十三日にすす払いが行われました。幕府が江戸城内ですす払いを行うのが、その日だったからです。大店と呼ばれた大商人の家では、使用人や出入りしている鳶職人が総出ですす払いをするのが慣わしとなっていました。すす払いが終わった後は宴会となり、店の主人が蕎麦を振舞って労をねぎらいました。すす払いが終わった後の宴会も、江戸の年末の風物詩の一つだったのです。