2015.1~2015.12 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏のプロフィール

日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

江戸をテーマに執筆・講演活動を展開。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
配信していたコラムを年毎に「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。

2015.01【江戸の寒詣り】
2015.02【江戸の白魚】
2015.03【江戸のひな祭り】
2015.04【江戸の桜餅】
2015.05【江戸の菖蒲】
2015.06【江戸の蛍狩り】
2015.07【江戸の朝顔市】
2015.08【江戸の草市】
2015.09【江戸の月見】
2015.10【江戸の松茸】
2015.11【江戸の葡萄】
2015.12【江戸の紅葉】

2015.01【江戸の寒詣り】

もうすぐ初詣の季節がやって来ますが、この時期に行われたお参りとして、「寒詣り」というものがあります。寒中に神仏に参詣することですが、商家に勤める小僧や職人の弟子たちが寒詣りする場合は修行の意味合いがありました。

寒詣りの恰好ですが、ふんどし姿で上半身は裸。草鞋も履かず裸足でした。そんな寒い恰好をしたのには理由がありました。商家の小僧にしても職人の弟子にしても、修行中の身です。腕を磨いて、早く一人前にならなければいけません。そのため、神仏にすがり願掛けしようとします。

ですから、まずは自らを清めるため、出がけには水を被りました。その上で、ふんどし姿で頭には白い鉢巻をして、お詣りに出かけました。敢えて寒い恰好をすることで、神仏のご加護を期待したというわけなのです。

2015.02 【江戸の白魚】

隅田川で篝火を焚いて白魚を取るのは、江戸の春を告げる風物詩でした。「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空」という「三人吉三廓初買」(さんにんきちさ くるわのはつかい)のセリフは、その時の様子を詠ったものです。

江戸時代、隅田川の河口は現在の佃島辺りでした。佃島には大坂湾沿岸の摂津国佃村からやって来た漁師たちが住んでいました。徳川家康が関東に入国する際、その命に従って移住してきたと伝えられます。

佃島の漁民たちはそんな徳川家との由緒をもとに、将軍の食膳に供する魚のほか隅田川産の白魚を将軍に献上するのが習いでした。現在でも、佃島漁業協同組合は徳川宗家に白魚を献上しているそうです。

2015.03 【江戸のひな祭り】

まもなく、三月三日のひな祭りがやって来ます。ひな祭りの慣習がはじまったのは割合新しく、豊臣秀吉の時代からのようです。その頃は上流階級の行事でしたが、江戸時代に入ると一般にも広まります。

ひな祭りの由来ですが、中国から伝わった三月三日の祓いの行事に、日本古来のひな遊びが加わって生まれたものと伝えられます。祓いとは、厄を人形に託して川や海に流す行事のことでしたので、当初の人形は紙などで作られました。ひな遊びとは、ひな人形や個々の調度を供えて飾る行事のことでした。

つまり、この二つの行事が合体して、ひな祭りになったというわけです。ただし、ひな人形が高価なものとなると、川や海に流す風習はなくなります。現在のように、ひな壇に飾られるようになるのです。

2015.04 【江戸の桜餅】

隅田川縁に咲き乱れる桜は、江戸も今も春の盛りを告げる光景ですが、桜餅も桜の季節の食べ物として、江戸時代以来高い人気を誇ります。そして隅田川沿いには、この桜餅の起原となった寺院もあります。長命寺です。

長命寺近くにも桜の樹木が数多く植えられましたが、その落ち葉に目を付けたのが長命寺の門番です。桜の落ち葉を塩漬けにし、その葉で餡入りの餅を挟み販売したのです。これが桜餅のはじまりと伝えられます。

『南総里見八犬伝』の作者として著名な曲亭馬琴によれば、文政7年(1825)には塩漬けされた桜の葉が七十七万五千枚にも及んだそうです。当時は餅一つに桜の葉を二枚使っていますので、年間三十八万七千五百個の桜餅が製造された計算です。桜餅の人気ぶりが良く分かる数字と言えるでしょう。

2015.05 【江戸の菖蒲】

五月五日の端午の節句で鎧や兜を飾るのは定番ですが、意外にも菖蒲が重んじられていました。端午の節句には菖蒲酒を飲むことが定番になっていたほどです。

菖蒲が武家社会で好まれたのは、語感が「尚武」に相通じるということもありました。尚武とは武事(武道・軍事)を重んじるという意味です。

江戸後期に開園した向島百花園は名前の通り、様々な花が咲き乱れる庭園でしたが、菖蒲のみ植えた庭園も各所に造られました。現在の葛飾区堀切に菖蒲園が点在していたのです。堀切は隅田川の分流が流れる湿地帯であり、花菖蒲の栽培には適した土地柄でした。

こうして、「堀切の菖蒲園」として歌川広重の「名所江戸百景」で取り上げられるほどの江戸名所となります。そんな堀切の菖蒲園の一つが母体となって、現在の堀切菖蒲園が生まれるのです。

2015.06 【江戸の蛍狩り】

虫を愛でる慣習は古来より日本文化の特色の一つですが、江戸時代に入っても、そうした事情は同じです。蛍狩りや虫の音を聞く虫聞きのため、江戸近郊に出かける風習が広くみられました。

江戸では吉宗が将軍の座に就いた十八世紀前期頃になると、北区王子や新宿区落合など風光明媚な江戸近郊にホタルの名所が次々と誕生します。こうして、王子や落合にホタル狩りに出かけることが江戸の歳時のなかに定着していきます。

神田の町名主を勤めた斎藤月岑が編纂・刊行した「江戸名所図会」というガイドブックがあります。江戸の観光名所が図入りで解説された書籍ですが、落合の地は「落合蛍」というタイトルで、蛍狩りを楽しむ人々の姿がスケッチされています。

江戸の蛍狩りは、身近に自然を失った江戸っ子が作り出した行楽文化の一つなのです。

2015.07 【江戸の朝顔市】

東京の初夏の風物詩として、台東区の「入谷の朝顔市」は有名です。朝顔まつりの期間中、入谷鬼子母神界隈は物凄い人出となります。江戸以来の由緒を持つ入谷の朝顔市は、近くに住む御家人が栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりのようです。

朝顔の花というと大輪型が普通ですが、その人気が高まり品種改良が活発になったことで、葉が変化に富む「変化朝顔」と呼ばれる珍種の朝顔が数多く生まれます。こうした珍種を生むほど朝顔の人気は高かったわけですが、御家人たちはどこで栽培したのでしょう。

大量に栽培するとなると相応の土地が必要ですが、御家人には所属する組単位で数千坪単位の広大な地所が幕府から与えられていました。その土地を朝顔などの栽培地として、共同活用したわけです。

初夏の風物詩である朝顔は、武士たちの屋敷地から生まれたものが多かったのです。

2015.08 【江戸の草市】

そろそろお盆の季節ですが、江戸の頃はお盆が近づくと、精霊棚や仏壇に供えるのに必要な飾り物やお供え物を売る市が立ちました。草市といいますが、盆市とも呼ばれました。

草市の露天商たちは、お盆に必要な品をどこで手に入れたのでしょうか。日光(奥州)街道最初の宿場があった千住宿の市場などで仕入れたそうです。宿場と言っても旅籠屋だけがあったのではありません。商店街としての顔も持っていました。市場もありました。

千住市場は、神田・駒込市場とともに江戸の三大青物市場として賑わいました。青物とは野菜のことですが、仏への供物なども青物市場で売られていたのです。七月十二日の草市で売れ残った品は、翌十三日に現在の中央区にあたる八丁堀や薬研堀の市で売られました。

この草市の風習は戦前まで続きますが、戦後に入ると次々と姿を消します。現在では、明治末期にはじまった中央区月島の草市が東京ではと唯一のものになっています。

2015.09 【江戸の月見】

秋の年中行事と言えば月見は欠かせません。月見は平安時代に中国から伝来した風習で、当初は宮廷行事として執り行われましたが、次第に民間でも月見の風習が広がります。

月見の場所としては、日の出と同じく海辺や高台が選ばれました。高輪、深川の洲崎、あるいは湯島天満宮境内などが月見の名所でしたが、とりわけ人気があったのが江戸湾岸の高輪・品川近辺です。

月見と言えば花瓶に挿したすすきのほか、お供え物の団子も定番ですが、月見団子の風習は江戸後期からはじまりました。江戸後期までは里芋や枝豆を供えるのが普通で、十五夜に里芋、十三夜に枝豆を供えました。

里芋を供えたのは、稲作が日本に伝わるまで日本人の主食が里芋だったからという説があります。江戸後期に入って米で作られた団子が供えられるようになったのは、それだけ米食が江戸庶民にとり身近な食べ物になっていたということなのでしょう。

2015.10 【江戸の松茸】

現在、松茸は高級な食べ物の代名詞となっていますが、そうした事情は江戸の頃もまったく同じでした。高級品であるがゆえに、将軍に松茸を献上する行列まで登場します。

毎年秋になると、現在の群馬県太田市から江戸城に松茸が届けられるのが江戸の風物詩になっていたのです。
厳重に選別された松茸は竹籠に詰められ、大名行列と同じ格式で一日も掛らず江戸城に届けられたそうです。午前九時に出立し、翌日の午前五時には江戸城に到着しました。江戸と太田の間は一日では踏破できない距離でしたが、香りや鮮度が落ちないよう新鮮なままで届けるため昼夜兼行で運ばれたわけです。

江戸幕府が滅んで明治に入ると、今度は皇室に献上されるようになります。この風習は昭和三十年(1955)まで続きます。現在では、「太田松茸道中」という太田市の行事として松茸献上の歴史が伝えられています。

2015.11 【江戸の葡萄】

秋の果物として、葡萄は欠かせません。葡萄酒・ワインのイメージが強いためか、何となく明治以降に西洋から入ってきた果物の印象が強いかもしれませんが、意外にも室町時代から葡萄の栽培は日本ではじまっていました。

江戸時代は、現在の山梨県にあたる甲斐国がその最大産地でした。百万都市江戸での需要を見込んで、葡萄が大々的に栽培されたのです。勝沼と言えばワインの銘産地ですが、当時は江戸と甲斐国(かいのくに)を結ぶ甲州街道の宿場町でもありました。甲斐国で取れた甲州葡萄は、勝沼宿の問屋から神田の青物市場に運ばれました。

最上の葡萄は幕府への献上用となりました。それ以外の葡萄は水菓子問屋の取り扱いになり、江戸市中へと流通していったのです。

2015.12 【江戸の紅葉】

江戸っ子は紅葉狩りの季節になると、紅葉の名所に繰り出すことを大変楽しみにしていましたが、東京都北区に飛鳥山という観光名所があります。飛鳥山は桜の名所として知られた景勝地ですが、秋にも江戸っ子が大勢訪れました。楓も数多く植えられており、紅葉の名所としても賑わっていたのです。

江戸の紅葉の名所としては飛鳥山のほか、向島の秋葉大権現、品川宿近くの御殿山、東海寺そして現在の京浜急行鮫洲駅近くにある海晏寺が挙げられます。東海道沿いに位置する御殿山などは海辺の名所でもありました。

桜の花見では酒宴が付き物でしたが、紅葉狩りでは静かにお茶を飲むのが定番だったようです。そして俳句を詠むのが、粋な江戸っ子の楽しみでした。