食のサロン 「江戸前鮨の話」

 

その1 / 握り鮨の発祥

関西の押し鮨に対し江戸前鮨といわれる握り鮨はいつ頃誰によって考案されたか。諸説があり定説は無いが江戸期に両国回向院前にあった「興兵衛(与兵衛)鮨」の小泉(華屋)興兵衛によって創案されたとされる説がある。

文化、文政の頃は徳川の治下かってない平和な時代が続き人々の食生活が豊かになり食に対する嗜好性も高くなる。ちょうど江戸料理の確立を見た頃である。もっとも江戸の町には早鮨等と言われ屋台の握り鮨屋が既にあったとされている。その中から財を蓄えた商人や宵越しの銭を持たない江戸っ子気質に後押しされ高級を売り物にする鮨店が店を構えるようになった。

興兵衛鮨もその一軒であったが天保の改革による贅沢禁止令に反した罪で興兵衛以下が捕られる事件が起こる。天保十三年の事である。この事件により興兵衛鮨は反って有名となり益々繁盛したとも言われている。余談ではあるがこの興兵衛を取り締まったのが時代劇でおなじみの北町奉行遠山の金さんであったとされている。興兵衛鮨はそれにより自粛を余儀なくされるがその後も江戸、東京と続き昭和7年に廃業されるまで名声を博したとされている。

現在墨田区両国一丁目には江戸前握り鮨発祥の地、与兵衛すし跡として案内板が立てられている。興兵衛鮨が江戸前鮨の元祖と言われるのは前記のエピソードに加えその鮨を描いた正確な絵が残る事にもある。明治10年内国勧業博覧会出展の為川端玉章が興兵衛鮨を写生した「両国興兵衛」秘蔵のすし図(現在所在不明)に20数種の鮨が描かれていたと言う。元絵を写した絵や作り方等の文献は今も残りクルマエビ、シラウオ、アカガイ、コハダ、厚焼き玉子、鮎の姿鮨等まさに今に通じる江戸前の仕事を施した鮨として伝わっている。

小堺化学工業本社のある人形町にはこの興兵衛鮨の流れをくむ鮨店がある。初代が興兵衛鮨の支店馬喰町「すし忠」で修行し興兵衛鮨の技を受け継ぎ独立した人形町「㐂寿司」である。現在も正統な江戸前鮨を伝承する名店と言われている。

※すしの字は寿司、鮨、鮓、寿し、スシ等有るが本文では鮨の字を使用根拠は無。

その2 / 鮨は創作

流通の発達により各地の食材が手に入るようになり江戸前鮨のネタの種類も豊富になってきた。又食の多様性で日本人の嗜好も変わって来ている。

「目には青葉山ホトトギス初鰹」の句にあるように鰹は江戸っ子の好物であった。とりわけ初鰹は高値で取引され江戸っ子はいち早く食べなければとこぞって見栄を張った。

今の東京人には刺身や鮨種と言えばまずは鮪でありとりわけトロを食べる事は庶民の憧れである。ところが江戸の昔、鮪は下魚とされ特に脂の乗った腹の部分は殆ど食されなかったらしい。鮨ネタとしてトロが登場するのはずっと後の話で昭和初期初めて握って客に出したのは「日本橋吉野鮨」と言われている。

吉野鮨の主人がアブと呼ばれていた脂身の部分をもったいないと考え客に試した処意外に酢飯との相性がよく好評であった。客の一人が口の中で脂が溶けて「とろり」とするのでトロと呼んではと言う事でトロと呼ぶように成ったと言う話である。今では部分によって大トロ、中トロ、表面をあぶってあぶりトロ、カマや頭の部分をカマトロ等呼び方も細かく区別されるように成った。中には同じ大トロでも霜降りや鹿の子等区別して客に食べ比べてもらうように提供する高級店もある。

日本橋吉野鮨本店は日本橋高島屋裏で今も江戸前鮨店として繁盛している。その箸袋には「江戸で生まれて東京で育ち今じゃ日本を握る鮨」という粋な文句かかれている。

食材としてのイクラやウニは握りにくく握ったところで又食べにくい。クラシックな鮨店では握って出す店もあるが一般的には軍艦巻きと言って酢飯を海苔で囲むようにしてその上にイクラなどを乗せこぼさずに食べられるよう工夫をしている。

この食べ方を考案したのはかの北大路廬山人に握り鮨名人と言われた「銀座久兵衛」の初代主人であったと言われている。この方法にてなんでも握る(乗せる)事が出来るようになり鮨種の種類は飛躍的に多くなった。

巻物もすだれで巻くばかりでなく手巻き鮨なる巻物も現れこちらも発祥の店と言うと「築地玉壽司」が昭和46年に始めたとされ、同店が元祖末廣手巻きと名乗っている。すだれで巻いてはつぶれてしまい巻きにくいウニやイクラ等を、さっと炙った海苔に乗せて包むような要領で海苔巻きにして職人の手から客の手に直接渡す。

炙り立ての海苔の風味とパリッとした食感が楽しめる。受け取った客はそのまま口に運ぶと言う面白さも受けたようである。ちなみに鮪を拍子木のように切り巻き鮨にした鉄火巻きは昔博打場(鉄火場)で簡単につまんで食べられるように考えられた事から鉄火巻きと言われるようになったと言う説がある。

その3 / 鮨の伝承

江戸、東京。明治、大正、昭和、平成と時代は変わるが今に至る現代の江戸前鮨を語る上でかかせない店がある。江戸末期からの名店の流れをくみ明治10年創業の三原橋「二葉鮨」である。天皇陛下の前で鮨を握った三代目、現在5代目であり代々続く名店であると共に多くの鮨職人を輩出した功績においても特記すべき有名店である。

昔の鮨店はオーナーが職人を雇って店を営業するケースが多かった。包丁一本サラシに巻いての世界でも有るが良い職人を雇えるかどうかが店の繁盛に影響したのは言うまでも無い。二葉鮨ではその職人の派遣や斡旋を手掛けてきた歴史がある。昭和初期の鮨業界では二葉鮨出身の多くの鮨職人が業界の発展に貢献した。

中でも銀座「きよ田」の初代親方を始め、「すし春」、「錦」などの親方を務めた藤本繁蔵、銀座「なか田」を創業した中田一雄、銀座(後の八重洲)「おけい寿司」の新家安蔵、銀座「源」の岡田源四郎は特に有名で二葉鮨四天王と言われ名職人、名店の主人として知られている。深川不動に双葉鮨二代目が奉納した番付には所属していた八十人からの職人名が刻まれていたとの話である。

ところで二葉鮨のある銀座は高級鮨店の代名詞とされている。「寿司幸本店」、「新富すし、」「ほかけ」、「きよ田」、等々名前を挙げればきりがない。以前銀座鮨御三家の1件と言われていた「与志乃」で修業をした寿司職人には「すきやばし次郎」の小野次郎、「鮨松波」の松波順一郎、「鮨青木」の青木勝利がいる。

ちなみに「鮨青木」の先代は銀座鮨御三家の1件と言われる「なか田」で修業して暖簾分けを受けたという。ミシュランの三ツ星を獲得した銀座の名店「すきやばし次郎」も内外共に有名店となり共に日本の鮨を世界に知らしめる役割をはたす。技術を受け継ぎ独立した店舗は多いが代表的な店として次郎からは「水谷」なか田からは「からく」等がある。

これらの店で修行した多くの職人が次世代の江戸前鮨職人として江戸前の技を伝承し現代江戸前鮨の旗手として活躍している事も付け加えたい。各店が味を競い昭和以降の江戸前鮨の伝統と技術を継承し鮨の技術を確立して行く事となる。

その中から日本を代表するホテルに出店を依頼された鮨店がある。なか田と、同じ銀座御三家鮨の1件とされる久兵衛である。帝国ホテルに「なか田」ホテルオークラに「久兵衛」が出店しその後アメリカ大統領を始め世界のVIPの舌をうならせる事になる。久兵衛はその後ホテルニューオータニ、京王プラザホテルにも出店。ちなみに関西、大阪では帝国ホテル大阪に「久兵衛」リーガロイヤルホテルに「なか田」が江戸前鮨として出店している。

その4 / 鮨の工夫

日本人は世界中で最も魚を美味しく食べる方法を知っている国民と言えるだろう。一見単純に見える江戸前鮨は旬の魚をどうしたらよりおいしく食べられるかと言う工夫が沢山されている。日本人の魚への思いや知識が凝縮された料理と言えるのではないか。

小骨も多く身も軟らかく煮ても焼いても食べにくいコハダを塩と酢で〆て食す。色が変わりやすいマグロの赤身を醤油で漬け込むヅケ。たん白なヒラメ等の白身魚を昆布の間に挟み熟成させ旨味を増す昆布締め。穴子をさばいて煮込みコラーゲン質を軟らかくし、握る直前にさっとあぶり焼きにする。その頭や骨から取った出汁を煮つめたツメと呼ばれるタレをぬって食べる。鶏卵にエビや白身魚のすり身を混ぜて焼き上げる卵焼き。いずれも江戸前鮨の誇るスターたちである。

生きた車えびを水槽からすくって客の見ている前で手際よく殻をむき握り鮨にする、いわゆる海老の踊りと言うパフォーマンス。飾りつけの笹を包丁で切り鶴や亀等に見えるように細工する。その包丁裁きを見れば職人の腕もおのずと分かると言う物である。客の目の前で鮨を握る職人の粋な姿は絵になるものである。

ところで鮨の調理人は何故か職人と呼ばれる。調理人でも料理人でもなく鮨職人の呼び名が似合うのは江戸前の伝統を受け継ぎ技術のみでなく江戸っ子気質まで伝承されるからであろう。

だいぶ以前の事に成るがTVドラマで「いきのいいやつ」と言う鮨店を舞台にしたドラマがあった。江戸前の鮨店の店主とそこで修行する事になった若者が織り成す人情ドラマで好評であった。修行を通して技術ばかりでなく職人の心意気や人の道を学び一人前の鮨職人として独立するところで最終回を迎える。

主人がこの原作者でありモデルとされる店が神田神保町の路地にたたずむ江戸前鮨の名店「神保町鶴八」である。さしずめ暖簾分けされたこちらも名店として名高い「新橋鶴八」の主人が修行を終えて独立した職人のモデルと言う事になるのだろうか。

現在最も完成された鮨の握り方に本手返しと言う技法がある。手の中で鮨めしを転がすようにして形作る握り方で見る目も華麗に握り上げると共にふっくらと口に入れると崩れるように握ることが出来る。この本手返しは安政二年創業の木挽町「美寿志」と言う鮨店で明治時代に完成されたと言う説が伝えられている。

銀座にある「寿司幸本店」はその流れを汲む江戸前鮨店として知られている。浅草駒形の鮨店「松浪」の主人はこの本手返しの達人で通常熟練者でも5秒は掛かるところ2秒程で華麗に握ると言われている。

小堺化学工業㈱の顧問であった成瀬宇平はかって職人の握る鮨を医療に使うMRIで撮影し、握り加減による鮨の美味さを科学的に検証した事がある。飯粒の間の空気の空間が口に入れたときの握りの食感に違いを及ぼし微妙な握り具合が鮨の味に影響を与える事が分かった。まさに職人の技を科学的に実証したわけである。

その5 / 鮨の食べ方

鮨を食べる時にいくつかの疑問がある。鮨はどのような順番で食べるのが良いのだろうかと言うのもその一つであろう。ありきたりの答えであれば白身の魚から握ってもらい次に季節の貝類、マグロの赤身や中トロを食べコハダなどで一度口の中をさっぱりさせてアナゴなどの煮物、巻物と卵焼で一通りとすると言う事に成るのだろうか。要するに味の薄い物から濃い物にガリ等で口直しをしながら、と言ったもっともらしい話になる。

その質問を鮨店の亭主にすると意外に答えはまちまちである。「久兵衛」のような有名店でも常連客には中トロやトロから握って出す事もある。その日の自慢のネタをまず食べてもらいたいと言う事であろうか。お任せと言って職人さんに季節やその日の仕入れによってみつくろって握ってもらえば世話無しではあるがせっかくなので好きな物を好きなように頼むのも良いのではないだろうか。と言ってもサア何から握りましょうかとかまえた時にいきなり巻物から頼まれてがっかりしたと言う話も聞いた事がある。

実は私もこの質問をされる事があり自分なりの答えは店によって違うと言う事になる。例えば「神保町鶴八」ならまずカスゴからしおむし(蒸鮑)〆はオボロを海苔巻きで。「銀座新富すし」ならシャコ、ハマグリ、アナゴ、アワビの各煮物ネタを中心に、最後は干瓢巻に山葵を効かせて。「柳橋美家古鮨」ならとろける穴子と卵焼き、〆は太巻き風の鉄火巻。

しかし実際鮨屋のカウンターに座り好きなように頼むとなると懐具合が許してくれない。正直なところ我々庶民にとって鮨の値段と言う物が一番気になるところである。したがって次の疑問はすしの価格ということに成る。

だいぶ以前の話に成るがあるマスコミが鮨屋の値段について次のような調査実験をした事がある。学生風の若者男子2名と中年の恰幅の良い男性と垢抜けた女性のペア二組が、注文をして食べる鮨の種類と数、飲み物を何本飲むか打ち合わせて別々にお店に入る。少し離れてカウンターに座り男子2人はおとなしく、男女ペアは板さんにビールを勧めたりして歓談し同じような時間に店を出る。果たして支払った金額の結果は如何に。気になるところかと思うが、結果はご推察のとおりであったとだけ申し上げる事にする。

鮨店にとってはネタの原価は季節や仕入れの状況で異なるのも事実であろう。食べる順番等は気にせず、価格も前もって分かる1人前を頼んで楽しむのが一番のようにも思える。懐具合が許せばそれに1、2貫その日のお勧めを頂くのも良いだろう。

つけ台に座り試しに玉からもらおうか、おやじ自慢の大トロから握ってくれ。通ぶってそんな無粋な注文をしよう物なら運命や如何に。せっかく美味しく鮨を堪能していい気分も、いざお勘定でそんな気分が吹き飛ばないように。

その6 / 鮨も新し物好き

都内で今も続くもっとも古い鮨店は神田小川町の「笹巻けぬきすし総本店」と言われている。元禄15年創業とあるので300年以上の歴史がある事に成る。今に言う江戸前鮨とは異なり酢飯を俵型の握り飯のように形作り酢でしめた魚を乗せ名前のとおり笹で巻いた鮨である。日持ちを意識してかなり強く酢を利かせ保存効果のあると言われる笹で巻いたのもその為と思われる。

毛抜き鮨の由来は毛抜きにて魚の小骨を抜いて鮨を作ることからそう呼ばれるようになったとされている。酢飯の握り具合等は押し鮨に近いようにも見えるが現在の握り鮨の原型のようにも思われる。季節によって鯛や白魚、コハダ等の魚に卵焼きやオボロ、干瓢の海苔巻きをセットにして一人前としている。この店の由来書には安宅の松の鮨、両国の与兵衛と共に江戸三鮨と言われ広く通人の味覚を喜ばせたとある。

ところでこの書に出てくる江戸三鮨「松の鮨」とはどのような鮨店だったのであろうか。
記述に寄れば文政13年喜多村信節「嬉遊笑覧」に文化の始め頃深川安宅六軒堀に開業した松が鮨(松の鮨)により世上鮨の風一変しとある。この一変には上方の押し鮨から江戸中のすし店が握り鮨に変わったと言う一変と高額の鮨を売り出し他の鮨店もこれに倣ったと言う二通りの解釈がある。

これにより松の鮨が江戸前鮨の元祖であると言う説もある。主人の堺屋松五郎にちなみ安宅の松五郎の鮨を通称として松の鮨が後に店名に成ったとされている。歌川国芳の錦絵にも登場したとされるが高級を売り物とした為、興兵衛(与兵衛)と共に倹約令にかかり、手鎖にされたとある。その後の記録は定かでない。

東京で歴史のある江戸前鮨店と言えば「鐘は上野か浅草か」で有名な浅草弁天山鐘付堂にある弁天山「美家古すし」もその一軒である。創業は慶応とあるので江戸時代から続いている事になる。江戸前の伝統ある仕事をする事でも有名で穴子を白く煮るさわ煮を始め江戸前の仕事を施した鮨が味わえる名店である。

銀座「すし栄」は嘉永元年(1848)創業とされており江戸前鮨店としての歴史は最もあるとされている。初代栄蔵が神田で創業しその後昭和になり銀座に移ったとされる。歴史は古い店ではあるが最先端のサービスを取り入れている。

ホームページにその日に客に提供するネタをリアルタイムで映像と説明付で紹介するシステムである。今日は壱岐で取れたマグロが入荷しているとか三陸産の鮑が美味しそうとか夕方客が本日のネタを下調べして出かける事が可能となる。一昔前では考えられないサービスであり、新し物好きの江戸っ子もびっくりである。

その7 / 鮨にバイブレーヤーあり

鮨の語源は酢と米を表す酢めし、魚と酢の鮓等と言われている。その始まりは塩漬けした魚に米を使い発酵させて作る保存食であったとされ、滋賀県琵琶湖周辺で食べられる鮒鮓が今に残るもっとも古い形の鮨と言われる。もっとも江戸前握り鮨とはまったく異なる物である。このような魚に塩をして米を使い乳酸発酵させた鮨は熟れ鮨と呼ばれる。

江戸における鮨は熟れすしから半熟れずし、押し鮨、早鮨、握り鮨と変容してきたという説がある。江戸で鮨が普及した理由の一つに酢が安く多量に手に入るように成った事があげられる。知多半島半田村の地において中埜又衛門が酒粕から赤酢を作る製法を開発し江戸に持ち込んだ。現在の愛知県半田市のミツカン酢である。

両国にある「政五すし」の店先には「江戸の粋薫りただよう山吹の」句が掲げられている。この山吹とは古く江戸前鮨に使われ今も江戸前鮨に最も適していると言われる三ッ判山吹の事である。

鮨用の酢を製造し発展した醸造酢メーカーは東京及び周辺にも多くある。現在も赤酢のブランドとして有名鮨店で使用されている「珠玉」等の製造元横井醸造。多くの鮨店で支持されている私市醸造が知られている。鮨店のこだわりの合わせ酢がこれまたこだわった米とあいまって鮨飯の味を決める。

生姜の酢漬けガリも鮨には付き物で魚の生臭さを消す効果もある。前に食べた握り鮨の味をガリで一旦消し口の中をさっぱりさせて次のネタを味わうのが通とされる。鮨につける醤油も江戸前鮨が出現したとされる文化、文政の頃に既に江戸市中では広く利用されていて江戸前の鮨を引き立てたとされる。

醤油が普及する以前は煎酒と言われ酒に梅干を加えて煮つめた物が使われていた。これに削り節や味噌から作る溜まり等を加えこして使う工夫もされたらしい。江戸伝統の仕事では醤油をそのまま使うのではなく酒や味醂、出汁を加え煮きりにして握られた鮨種の上に刷毛でひと塗りする。そうする事により食べ手は醤油に鮨を浸す事無く口に運ぶ事が出来る。

ワサビも鮨には欠かせない薬味である。江戸前鮨では伊豆の天城産が良いとされる。鼻にツンと来る刺激があり付けすぎると涙が出るので鮨店ではナミダと言う符丁で呼ぶ事もある。鮨店では符丁で呼ぶ事が多くお茶を上がりと呼ぶ。花柳界では客が来ない事をお茶を引くと言い縁起が良くないとされる。客に最初に出すお茶を出花、最後に出す場合を上がり花と言ったがそれが略されて上がりになったと言う説がある。

酢めしをシャリと呼ぶのは白くつやのある米粒がお釈迦様の骨である仏舎利を連想させるから。玉子焼きをギョクと呼ぶのは玉子の玉の音読み、カッパ巻きは河童の好物とされる胡瓜を海苔巻きにした物。アワビを片思い、シャコを車庫とかけてガレージとなるといささかダジャレの感がある。

その8 / 卵焼きは鮨屋のこだわり

鮨のネタに何処の鮨店でも必ず玉子(鶏卵)焼きが置いてある。一人前の鮨桶に盛り込まれた場合は玉子の黄色はとても見栄えが良く全体の彩を華やかにする。何故本来魚を使う江戸前鮨に玉子が使われるのか。関西の押し鮨に使われていたから、高級感を出すため当時高級品であった玉子が使われた等々諸説があるが定かではない。

しかし鮨店にとって玉子焼きは職人の腕の見せ所でもあり特に江戸前を看板とする鮨店では並々ならぬこだわりを持って焼き上げられる。客もまたその店の特長ある玉子焼きを楽しみにしている。

一通り鮨をつまんだあと最後に甘味のある玉子焼きをデザート代わりにするような要領で食べられる事が多いようである。むら無く焦げ目を付けて焼き上げる物、焦げ目をつけず玉子本来の色を生かす物。薄焼きや厚焼き、だし巻きもあればカステラのように甘い物もある。

握り方もそれにあわせ厚焼き玉子の真ん中に包丁を入れ馬につける鞍のように握る、くらかけ。握った玉子焼きに海苔で帯をかけたり玉子焼き自体に切れ目を入れ中に鮨飯を詰めたりもする。

銀座寿司幸本店ではハンペンで有名な日本橋の神茂よりハンペンになる前のサメの身をペースト状にすった物を分けてもらいそれをベースに玉子焼きを作ると聞いた事がある。以下各有名店の玉子焼きを紹介する。実際の作り方や焼き方は企業秘密が多いので参考程度と考えて頂き機会があればご自分で確認して頂きたく思う。

新橋 しまだ鮨:シバエビすり身入りだし巻。
九段下 寿司政:ヒラメのすり身入り焦げ目をつけない。
八重洲 おけい鮨:玉子のみで中がトロリとした食感。砂糖を入れ、黄身の量を増やして焼き上げているのかとも思われるが詳細は不明。
四谷 纏寿し:だし巻にエビオボロを乗せて出す。
すきやばし次郎:シバエビすり身に山芋入り。
神保町 鶴八:コバシラのすり身入り。
銀座 鮨からく:ハモのすり身と山芋入り。
谷中乃池:片面に焼き色を付けた薄焼きでエビオボロを包む。
銀座 天川:シバエビとタイのすり身、ハモ、アマダイを使う事もある。
表現が難しいが茶碗蒸しやプリンに似たような卵焼きもある。

ざっと上げただけでも各店特長のある仕事が施されている事がご理解頂けると思う。一昔前に子供に人気のあるも物の代表として「巨人、大鵬、玉子焼き」と言われた事がある。巨人とはプロ野球の人気球団、大鵬は昭和の名横綱、玉子焼きは同じように子供を始め広く人々に指示される。

鮨には日本人の好きな魚と共にその玉子焼きがネタの一つとして使われている。計算されての事ではないにしても鮨は万人の指示を受けるべくして好まれる食べ物かもしれない。

その9 / 鮨種も時代と共に

現代は食べ物で季節を感じることが出来にくく成って来ている。野菜一つにしても一年中出回る物も多くそれが本来夏野菜であったか冬が旬であったか分からなくなってしまった感がある。かろうじて季節を感じられるのは春の竹の子、秋の松茸位の物であろうか。

鮨においても全国はおろか世界中から集められた魚を使って握られるのであるから季節を感じ取る事は難しい。しかし良い鮨職人は常により良いネタを仕入れる事に心血を注いでいるのでどの季節に何処のどの魚が美味いかを熟知している。取れる場所によっても時期が変わるが鮨職人の話しでは最近は魚が取れ始める時期が早くなっているとの事である。
又取れる場所も北上傾向にあるらしくこれも温暖化の影響なのだろうか。

江戸前鮨の話でもあるので築地市場における魚の旬を聞いてみた。
春はカツオ、マダイ、サヨリ、シラウオ。
夏はマアジ、カンパチ、マアナゴ、シマアジ。
秋はマイワシ、コノシロ、ホシガレイ、イシガレイ。
冬はヒラメ、ブリ、本マグロ、クエ。
その他鮨ダネではタコ、シバエビ等が10~1月
アワビは8~10月。
イカ類はアオリイカ5~8月
スルメイカ7~9月ヤリイカ
10~3月と鮨店では使い分けているらしい。

もっともカツオのように秋の戻りガツオの方が脂が乗って美味いという人もいるしサヨリも9月が旬と言う話もある。ともあれ日本料理は季節を味わうと言われ四季のある国が育てた料理に他ならない。鮨を食べるのであれば是非季節を目と舌で味わいたい物である。

なじみの鮨店から生のトリガイが入りました。シンコが初入荷されました等と知らせがあれば鮨好きであれば何を置いても駆けつけるのではないだろうか。最近の若い人たちが好きな鮨ダネの№1にサケ(サーモン)を上げていると聞きおどろいたものである。

私の頭の中には北海道等でルイベにして食べる事はあってもサケを生で鮨ダネにして食べると言う感覚は無かった。生食用のサケはノルウエーからの輸入であるらしい。以前ノルウエーを旅した時にノルディックサーモンのマリネや、スモークサーモンを毎日のように食べ良いサケである事は実感した。しかしそのつど、このサケを塩鮭にして食べたらどれ程おいしいだろうと思ったものである。

実際ノルウエーの列車の中で特別に日本人の飲食店で作ってもらったサケの塩焼き弁当を食べたのだがこれば真に美味しかった。このサーモンの鮨は若い人ほど好む傾向にあり40代より上の年齢の人には好まれないと言うデーターもある。統計からすればサケを生で食べる事へ抵抗があるのは年寄りと言う事になる。

今や江戸前鮨に欠かせないイクラやウニも元々江戸前鮨のネタには無かったものである。それを考えれば近い将来サーモンが江戸前鮨の看板ネタと成ってもおかしくは無いのだが、少し複雑でもある。

その10 / 鮨は魚河岸とともに

東京日本橋のたもとには「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑が建っている。この碑文には今の日本橋室町の一帯はことごとく鮮魚の市倉なりとあり魚河岸はこの辺りにあったとされる。江戸時代の初め徳川幕府は江戸城内の台所をまかなう為大阪佃村より漁師を呼び江戸湾内で漁をする特権を与えた。漁師たちは取れた魚を幕府に納め残りを日本橋で売るようになりそれが魚河岸の始めとされる。

江戸時代中ごろには魚河岸では日に千両の金が動くと言われるまでになった。大正12年9月関東大震災が東京を襲い多くの被害を出した。日本橋一帯も焼き尽くされ魚河岸はその幕を閉じた。震災直後は芝浦に仮設市場が設けられたが交通の便が悪く海軍省から築地の用地を借り受け東京市設魚市場とした。昭和10年にその築地の地に東京都中央卸売市場が開設されこれが現在に至る東京都民の台所、築地市場である。平成17年の実績統計では一日3,350トン金額およそ21億円が取引されている。

江戸前鮨の話をするならばこの築地の鮨店の話もしなければ成らないだろう。全国から集められた新鮮な魚が最も手に入りやすい所である。築地場内で人気店といえば、「すし大」、「大和寿司」が上げられる。いつも行列が出来る鮨店である。「岩佐寿し」、「鮨文」等も評判が良いようである。

本来市場へ仕入れに来る鮮魚店や料理店、場内で働く人向けの店であったろうが今や観光名所的になって来ている。買い物ついでの主婦たちや築地見物の外人さん等で賑わっている。場外では都内や全国に店を広げている「寿司清本店」やグループ店舗を多く持つ内の一店「築地黒瀬鮑」等の人気が高いようだ。新鮮なネタを比較的リーズナブルに提供している所が受けているのだろうか。

朝早くから開く店もあればチェーン店の「つきじ喜代村すしざんまい」のように明け方まで営業している店もあり一日中鮨が食べられる。価格共々TPOに合わせた鮨の町でもある。市場の喧騒を少し避けてゆっくり鮨を楽しみたいならば「築地江戸銀」や「すし岩」等の老舗鮨店が良いだろう。

江戸銀はアナゴに火を通さず薄作りにしポン酢で食べさせたり当時ボイルがあたりまえであったタコを生で握ったりして評判を得た。すし岩は築地にあって江戸前の丁寧な仕事をする鮨店として鮨通に好まれた。評判を得て一時店舗を増やし拡張路線に走ったが今は適正な規模に戻し暖簾を守っている。

昔からの常連客が戻りつつあるようだ。鮨好きとしては応援したい2軒である。この築地市場も平成28年には場内市場は豊洲に移転する計画と成り場外及び周辺の鮨店は今後どうなって行くのだろうか。築地イコール新鮮な魚、美味しい鮨のブランドイメージも変わって行くのかも知れない。

その11 / ところ変われば鮨変わる

江戸前鮨は伝統を守りながらも明治以降変化を続けている。同じ江戸前の鰻店が原材料の鰻が養殖物になった以外技法も形も、味付けも殆ど変化していない事を考えれば対照的かもしれない。昔は食べなかったトロを好んで食べるようになり、イクラやウニも軍艦巻きや手巻き鮨にして食すようになった。

バブル全盛期にはスシバーなるものが流行りそこでの人気ネタが鮨好きを驚かせた。アボガドを使ったカリフォルニアロール成る物やツナマヨネーズやエビマヨネーズ、フォアグラやキャビアも鮨として登場した。海を渡った日本の鮨が変化して逆輸入されたものである。江戸前を売り物にする鮨店で、もしそのような物が出されたら、おそらくその店には二度と通わない事になるだろう。

しかしスシバーで出されるそれは江戸前鮨とは異なる食べ物ではあったがそれなりに食べる事は出来た。いやファッション性のある洒落た雰囲気の店内で間接照明の下ワインと共に頂けば実に美味しいという事になる。あまりに変化が大きすぎて付いていけなかっただけなのかもしれない。

ネギトロと言う鮨ダネがある。何処が始めた物か定説は無いが、鮨ダネの一つとして持ち帰り鮨を中心に定着した感がある。下町の気取らない店でありネギトロ巻きを世に広めた店ではないかと思う鮨店がある。池波正太郎の生まれた浅草聖天町の近く吉野町に店を構える「金太郎鮨本店」である。修業に来た職人に暖簾分けをして独立させるべく仕事を教える。見習い職人はいつか自分の店を持とうと一生懸命働いて仕事を覚え店も繁盛した。ここの職人が全国鮨コンクールの各部門で上位を独占した事もある。

一本買いしたマグロの中骨に付いたいわゆる中落ちや策取りした跡の切れ端に刻みネギを加え叩いた物を海苔巻きにした。以前は処分してしまった部分を工夫して食べるとなかなかの味であった。刻んだ沢庵と混ぜても巻き鮨としたがこれも美味しい。北海道札幌の名店「すし善」の名物にもなっているトロタクである。またこの店は軍艦巻きに抹茶アイスを乗せたアイスクリームの鮨も出し女性や子供に人気をはくした。突拍子も無い事を考える物であるが技術に裏打ちされながら伝統にとらわれない愉快な店でもある。

最近では都内の鮨店でも駿河湾特産のサクラエビの生を乗せた軍艦巻やノレソレと言ってアナゴの稚魚を軍艦巻で出す店もある。ちなみにノレソレは高知県あたりで使われる方言らしい。京漬物の千枚漬を握ったり、九州あたりで食される芽ネギを握った鮨もある。フグやアラを名産とする地方ではこれらの高級魚も鮨にした。

これらは江戸で生まれた江戸前鮨が地方に根付き地方の特産品をネタにして本家に戻ってきたという事になる。近頃は世界寿司コンテストなるものがロンドンで開催されているらしい。世界各地域や国から自慢の鮨を一品勝負で競い合うコンテストとの話である。

宮城県の「あさひ鮨」でそのコンテストで世界一になったと言う鮨を握ってもらったことがある。あさひ鮨は地元気仙沼の特産品フカヒレを使った鮨を名物として知られた店である。この店の職人が国内予選を勝ち抜いてコンテストに参加し優勝したとの事であった。その鮨は軍艦巻きに特産のフカヒレを乗せたものであったがフカヒレの上に金箔が飾ってあり食べるとなんとシリアル(コーンフレーク)が口の中で広がった。

その12 / 海苔は鮨のパートナー

江戸前鮨に欠かせない食材として海苔がある。江戸前海苔の代表としては浅草海苔や品川海苔が知られている。原種としての「アサクサノリ」は野生種として日本の太平洋側各地の内湾に分布していた。色が赤めで肉質が柔らかく独特の磯風味があるが水質汚染等に弱く育てにくい。現在は養殖海苔の殆どが「スサビノリ」となっている。スサビノリは色が黒いのが特長で病害にも強い。アサクサノリの野生種は干潟が埋め立てられ減少し環境省のレッドリストに絶滅危惧類とされている。

浅草海苔の名の由来は江戸浅草で製造販売された為と言う説がある。海苔を抄くのは紙の産地でもあった浅草の和紙を抄く技術が取り入れられたという話もある。上野寛永寺の天海上人が命名し江戸名物にしたとも伝えられる。おそらく商売上当時江戸の発展と共に名を知られた浅草をブランド名として冠し江戸名物としたのではないかと思われる。現在は有明海産の海苔が主流となっているが、鮨店によってはきめ細かい瀬戸内産を選んで使っている店もある。

海苔巻きには海苔を1枚使用する太巻きと半分使用して巻く細巻きがある。昨今は中巻きといわれ主にテイクアウトの鮨等で作られるものもある。海苔になじみの無い外国では海苔の色等見栄えに抵抗があるようで、海苔を内側にして裏巻きと言う技法もある。海苔巻きと言う言葉を使ったが、江戸前鮨では巻きすしが正しい言い方となる。通常は鉄火巻やかっぱ巻きのような細巻きである。

昔は関西に細巻きはなく、江戸前鮨がルーツと思われる。江戸前鮨では海苔を炙って焼き海苔の状態で巻き焼いた海苔の香りを楽しむ。破れやすく巻きにくい焼き海苔を鮨職人がその技術で素早く巻き上げる事により歯切れの良いパリッとした食感が味わえる。御徒町にあった名店鮨処寛八では海苔を入れておく缶のような特性容器があり電熱を通して、しけらないようにする工夫をしていたように記憶している。

巻き鮨の芯として代表的なものにカンピョウ(干瓢)がある。カンピョウはウリ科の夕顔の実を細く削り、平たい紐状にして乾燥させた物である。今は全国生産の98パーセントが栃木県で作られる。水はけの良い関東ローム層と名物の雷による夕立の雨が夕顔の栽培に適しているとされる。

鮨ネタとなる魚や貝、甲殻類には各種アミノ酸、DHA、タウリン等色々な栄養素が含まれるが如何しても繊維質やビタミンCが不足する。カンピョウは食物繊維やカリウム等ミネラルが豊富であり、海苔にはビタミンAを始めB1,B2、E、Cも含まれる。握りの他に巻き物としてカンピョウやカッパ巻きウメシソ巻き等を加える事により栄養学的に必要な栄養素が含まれた食べ物となる。

カンピョウ巻きを食べて最後にウメシソ巻きで口の中をさっぱりさせるのは栄養的にも理にかなった食べ方と言える。私の場合はカンピョウ巻きにワサビを利かせてもらい最後の注文として頂く事が多い。

※この冊子に掲載されている情報は2015年10月現在のものです。(小堺化学工業株式会社 青木 知廣)